ヤマギクしょうゆ
山元菊丸商店
 創業者、菊丸は旧麻生津村杉谷の農業山元又右衛門の次男として明治13年11月7日出生。麻生津小学校を卒業し、立待小学校の高等科2年を修めた。又右衛門の家系は古く、七代つづく農家で、麻生津村での旧家であったと聞く。菊丸は卒業後、福井税務署、京都郵便局などつとめ、後、市内の宮田運送店の養子となって、同店の帳場をあづかった。その間、店主のすすめで三国町より妻タカをむかえた。しかし何が原因か今日では不明だが、2人で同店を出て、現在の醤油業にかかわりをもつ機会をつかんだ。
 明治40年、醤油業を営む高品家を買いとって小売業をはじめた。(現在の御幸1−17−9附近。)製品の仕入れは三国町の醸造家からだった。お得意さんも高品家からうけついだが、それにもまして、夫妻の営業にかける情熱はつよく、寝食をわすれて仕事にとりくみ、販売量も次第にふえていった。その間、3児をもうけて育児にも時間をさかなければならなかった。そして大正3年頃、いくらか営業環境のよい現在地の旭橋東詰の矢尾さんの住宅を買いとって移転した。前の道路わきのガス灯に点火することが日課であったと聞き、当時がしのばれる。内部の改造をくりかえしつつ、中古桶など買い、醸造業として形をととのえていった。
 はた目にも働きすぎだったタカは、それが原因で三児を残して大正7年急死した。菊丸にとって、営業と育児で苦難がつづいたが、元来病弱な体質を助けて働いてくれたのは、弟、清であった。清が杉谷町村上家に養子にいくまで、精力的に働き当家にとって大きな貢献をした。そして大正10年、後妻、咲枝を次郎丸町よりむかえた。
 長男、秀雄(のちに襲名して菊丸=ニ代目)は大正15年福井商業学校を中退して、家業をついだ。この頃には、従業員も5、6人いて、日が昇る前に、御用聞きにでて他店としのぎをけづる販売合戦がつづいた。午後その分を配達するのだが、天秤棒に2斗樽、ハッピ姿の出立が、次第に新鋭武器の自転車に移っていった。
 営業には過酷な競合で気苦労がつづいたが、それにともなって資産も漸増し、それを貸家、貸地に換えていった。そのような平和な日々のつづくなかで、菊丸(2)は、昭和4年2月、現役兵として、金沢の輜重聯隊へ入営した。つづく7年、上海事変に応召された。内外に戦雲がたれはじめ、軍事大国の方向に大きく移り変りつつあった。
 当家のしあわせも、いつまでもつづかなかった。昭和8年7月14日早朝、出火し、隣接の貸家、内藤そばや、和田呉服店、中川と当家の全棟、出火原因不明のまま最後まで争った白山湯が、一瞬にして灰燼と化した。火のまわりが早やかったことから、何一つ持ちだせず、それまで築いた全財産を失い、丸裸同然となった。しかし目に見えない大きな財は無事だった。それは「信用」と「お得意さん」だった。
 復興は武生矢佐組の手によって、急速にすすめられた。貸家3軒を含め、住宅店舗工場を総工費20,000円で、当時としては近代的なものが、一気に完成した。しかし、あわただしい国際状況のうち、菊丸(2)は昭和12年9月に支那事変、昭和16年7月には満洲関東軍に応召された。そして12月、第二次世界大戦突入のころには、はたらきざかりの男は、次々に応召され、又還らぬ人も次第にふえた。
 初代菊丸は14年11月、波乱の中病死した。又菊丸(2)出征中、留守をまもるすみ子にとっては、新らたな苦難がおしよせた。統制傾向のつよまる中で、欠乏する原料、不足する労働力で、売ることよりも、大豆、塩などを確保するのに苦労した。戦争完遂の大目標のまえに、すべてを犠牲にして苦に耐えたが、19年頃には5人の子供をかかえて、まったく営業出来ないまでに切迫した。再度の応召で、菊丸(2)は福井聯隊区司令部に勤務となった。
 昭和20年7月19日は、暗黒のどん底につきおとされた歴史的な日だった。その夜、B29による福井大空襲によって、一片の財も残さず灰となった。1ヶ月後の終戦は、当家にとっては、むなしい民主化の夜明けであった。1つのすくいは戦争による犠牲者が出なかったことだ。
 3間×5間の仮住宅と、焼けトタンの店舗の中で、再出発の小売りから歩みはじめた。貴重な醤油だっただけに、生活物資との交換には役立った。そして23年春には、6間×6間2階建店舗住宅の本建築に着工するまでにこぎつけた。落成し家移りを翌日にひかえた昭和23年6月28日、再び魔がおそった。大地をゆすった大地震によって、新築家屋は地にふし、菊丸(2)はその下じきとなって軽傷をおった。古建物を買い集め、醸造工場の復興が成されるまでは、家族全員、苦労の連続で、それも2、3年の歳月で一応まがりなりにも形はととのった。
 長男浄次が、福井大学(工)卒業後、飛島土木に2年つとめて帰福、家業をついだのはこの前後だった。自動三輪車を購入し、むかしのお得意さんとのつながりや、新らしく開拓につとめ、弟、輝秋の協力で、一歩づつ企業の形態をなしていった。菊丸(2)は26年から2期、福井市議会議員をつとめ、その後も旭公民館長、報徳幼椎園園長、行政相談員、調停委員など公職をつとめてきた。副業の泉水荘アパートなども、この頃建築した。
 工場も毎年少しづつ耐火構造に改築し、合理化につとめ、41年には最後に残った住宅兼店舗も、鉄筋コンクリート2階が完成し、ほぼ全部がととのった。時代の推移で、一昔前のように儲かる商売とまでいかなくとも、家族一同、幸せな日々を送ることが出来て、今日に至った。
 いつの世も、思わぬ災害に遭遇し、これと闘ってゆくなかで、先祖の偉大なカを感じ、その霊に深く感謝する。