粟菊しょうゆ
吉田醤油醸造場
 吉田家は、代々農耕を業としていたが、吉田庄吉は大工職を兼ねていた。庄吉の長男正二が長じて15才、大正2年の時、醤油製造を営むべく技術習得のため、金沢粟崎の菊醤油醸造元麦山醤油醸造場へ入社し2年間修業したが、後、帰宅して父庄吉と力を合せて、旧坂井郡鶉村佐野第21号76番地に若冠16才で創業した。そして粟崎の菊醤油の流れをくむものとして、粟菊醤油醸造元吉田商店として開業発足した。工場は砂子坂の藤田三左ヱ門醤油店が、たまたまその頃廃業したので、工場他機器類、諸味等を買受けて現地に移築したものである。
 一応の製造は出来るものの修業先の工場に比べれば、お粗末なものであった。まして現在に比べれば全くの手作業で、体の酷使の毎日であった。配達も同様で真暗な野道を配達がおわって疲れた体をひきずる様に帰宅した日もあったと、聞いている。
 当時鶉村地区周辺だけでも醤油製造業者が5社あリ、三国町方面からも数社入りこみ、販売合戦も熾烈を極め、創業当時の苦労は大変なものであった。歳は幼なかったが、創業者、正二の不撓不屈の意志は何にもへこたれることなく、吟醸に徹し、牛の歩みに似た商法で着々と拡販に成功していった。更に戦争中の統制配給、或は整備等苦難の時代も乗り切って、今日の基盤を築きあげたものである。当時の競争した醤油醸造業者は今は1社も残っていない。
 昭和20年8月、正二の長男文治が終戦により復員して、業を継承して経営の中心となっていった。
 終戦迄の物資不足時代の苦労については、文治が軍隊中で、正確なことを知る人は、現在は誰もいない。唯福井空襲にも遇わず、原料の焼失がなく、市内の業者と比べて幾分は助かった。その様な状況の中で、当地区にも福井からの疎開者が多数来ていて、区内には困難があったようだ。
 その間に、庄吉は、昭和19年3月他界した。そして間もなく昭和23年福井大地震のため、古い工場は損傷を受け、工場の一部を改築した。創業者正二は若い頃の過労のためか、50才を過ぎた頃から体調かんばしくなく、療養しながら就業していったが、昭和48年8月、75才で永眠した。昭和51年4月工場の拡張と設備の近代化の工事を始め、翌52年3月増改築が完成し、内部構造施設もある程度進歩して、今日に至っている。
 文治の長男正人も今年成人し、後継者としての努力を積みつつある。庄吉、正二、文治三代の間に当店従業員として、献身してくれた創業当時(大正5年〜昭和5年)の故中川末太郎氏(小野町)、終戦後(昭和25年〜昭和35年)の高柴信夫氏(浜別所町在住)、又、庄吉の妻よね、正二の妻かく、文治の妻八重子等の功も又深いものがあったことも記しておかねばならない。