マルハマしょうゆ
浜田醤油醸造元
◆昔を想う
 初代浜田止吉は、明治36年5月5日、石川県石川郡大野町字蓮池町61番地で、浜田吉太郎の10人兄弟の四男として生まれた。当地の大野町小学校を卒業後、金沢市近江町の魚屋へ奉公に出たが、2年程で身体をこわし、その店をやめて、自宅にて1年程静養する。
 その後、近くの大野町直庄醤油店へ奉公に入ったのが、大正9年頃であった。当工場にては、毎日早朝より、荷車に醤油樽を積み込み、弁当持参で、町廻りに、一生懸命走り廻り大変苦労したと聞いている。
 その間、止吉は、大野町室次の、西村家の、みどり、をめとり、長男、敏一を生んだが、親子共病弱にて、他界した。その後独立心の強い止吉は、単身福井に出て来た。そして当時、吉田郡下志比村志比堺に、清水文次郎氏が、醤油醸造業から土建業に転業するとの事を聞き、清水氏より、そのまま借り受ける事が出来、開業するはこびとなった。時は昭和3年9月9日で、苦労に苦労をすると言う事で、その日を選んだと聞いている。
 創業当時は、清水氏の御得意先を引き受けたが、何分にも慣れない土地で、徐々に販路をひろげるのに、毎日毎日、自転車で走り廻り、その上、止吉の弟了太郎を金沢より呼び寄せ2人で次第に販路を広げていった。その間、止吉は、旧吉田郡志比谷村諏訪間の坪川仙之助の長女、ホカオ、を後妻として迎えたのは、昭和5年12月であった。そして俊男、広、と2人もうけたが、病弱にて2人共他界へ、その後勇三を頭に男3人女3人の、8人家族となり、その上弟了太郎も近くより妻を迎え、征一、ひろ子の2子をもうけた。営業も次第に軌道に乗りかけたかに見えたが、弟了太郎は遂に、第二次世界大戦の召集令状来て、出征する事になった。その上商売の方も、仕込む事も出来なくなり、次第に統制になって来て、自由に売る事も出来ず、大変やりにくくなっていった。
 弟の了太郎は、南方のテニアン島にて戦死との公報が入って来たのは、昭和20年1月19日であった。止吉も、戦争が激しくなるにつれて、時々家を出ていく事が多くなり、昭和20年7月の福井空襲の頃には、近くの山に、避難する事が多くなっていった。
 昭和20年8月戦争も終り商売も、少しづつ廻転を始めていった。
 戦後、三男の勇三が高校を卒業後、東京へ行き、農林省食糧研究所にて、醸造食品講習会を受けて来たのが昭和33年9月であった。その後、父より家業を受継ぎ、この頃になって、住込みの従業員も居る様になった。そして自転車、荷車で御得意まわりも、オートバイ、から自動三輪車へと変って行った。
 昭和35年、現在の松岡町薬師1丁目に工場を新築し、移転の時は、自動車の数も少なく、道路も補装されず、大きな桶を、ころがして来たのは、今に思うと、本当に夢の様でした。
 その後、勇三は、昭和36年4月、丸岡町為安、表家の長女桂子を妻に迎え、浩幸、浩二の2人をもうける。昭和46年6月、初代止吉は、中風にて、他界の人となる。
 昭和53年5月には、店舗を新築出来たのも、先祖の商売を受け継いで、大切にやって来た事が、実を結び、深く感謝して居る次第です。