カクウメみそ
梅谷味噌醸造株式会社
 我が家は九頭竜川の河口、三国港の対岸に面し、北は遥かに東尋坊を望み、西は洋々たる日本海に接した風光明媚の地である。
 今より、百有余年前、先祖の建築した家に、当家四代目、与三郎は、この古い入りもや造りの家に限りなく愛着を覚え、今猶この家に住居している。
 当時の三国港は、裏日本の三大港として、酒田港、新潟港と共に殷賑を極め、千石船の出入りに賑った港である。
 初代与三郎は、嘉永6年、同村高柴家より妻をめとり、現在地に分家し、廻船問屋を営み、手船三隻を持ち(勢得丸、龍光丸、宝得丸)北海道と交益し、北前船の船主として、三国港と共に栄えて来たのである。
 月去り、星移りて世は明治と変り、北前船の時代も漸く去らんとする時・・・ニ代目、与三郎時代、北海道より「にしん」「かずのこ」昆布、塩ざけ等を満載して、宝得丸、龍光丸の2隻は帰路、隠岐の島において遭難、莫大な損害を被り、遂に再起不能の苦難時代を迎えたのである。そのため、残りの勢得丸を売却し、資金とし船蔵を改造し、増築して醤油味噌の醸造を始めたのである。時に三代目与三郎、18才の時、明治20年頃と聞いている。当時は、たこなわに天秤棒にて、壱升樽、2升樽をつるし、三国町を中心に附近の部落を得意とし、朝は早くから、夜は樽洗いと、つつましい毎日の生活であったようである。
 時、恰も舞鶴に軍港の建設が始まり、多くの労働者と軍人家族が入居して町内は日増に活気づき、すばらしい発展をとげたのである。この時、ここに販路を求め、海送にて小廻船を利用、味噌を満載して販売、遂に舞鶴市に数軒の得意を持つに至ったのである。冬期は海送不能のため、10月末より翌年3月頃までの荷を、舞鶴市余部町に、(高)味噌と協同にて倉庫を買受け、ここに貯蔵、(高)味噌と共に、越前味噌の名声を獲得したのである。
 時は、明治の末期で世は大正時代と変り、当時の味噌は一〆目当り、45銭であった。其の頃、実権は四代目に移り国鉄の三国支線が出来、小浜線が通して海運時代はすぎて鉄道便、陸送へと転じたのである。
 たまたま大正末期に起こった奥丹後地震を契機に、網野、峯山、宮津に進出、特約店や得意を持つ事ができた。下は伏木、高岡、金沢、小松、上は京都、彦根、長浜、木の本等に進出、これら販売先は、統制時代まで存続したのであるが、統制と共に出荷先は県内のみとなり、地方の販売は雲散霧消して歴史の1ページと化したのである。
 歴史の転換期とも言うべき統制時代。勿論我々業会も枠外ではない否むしろ生活必需品として一層きびしきものであった。最初は各郡単位の組合が出来、やがて県内一本化され、ここに醤油味噌統制会社の設立を見たのである。
 初代社長は福井醤油の野坂氏、専務に三郡代表の大井氏、味噌部として自分、其の他の役員は三国の沖野氏、丸岡の松田氏、大野の野村氏、勝山久保氏、福井より伊藤紋氏、山本氏、牧野氏、問屋業会の渡辺氏、稲田氏、鯖江の吉田氏、敦賀畑守氏、小浜桜井氏等、と記憶しているが、あまりさだかではない。
 会社内部では、水島、米五(先代)の両氏が中心となり運営にあたり、塩の使用を基準として、原料の配給より、出荷の割り合てまで、すべての業務を行ったのである。が、色々な問題で苦難の時であった。折りから自分にも召集令状が来た。・・・国家にむくいるは今ぞと悲壮な覚悟にて京都伏見の工兵隊に、入営、高槻の山中にて軍需工場建設の為、駐屯、福井敦賀の爆撃も入隊中に耳にした。時は敗戦の色濃く終戦は広鳥にて迎えたのである。我家は老父と妻と子供ばかり肉身の2人の弟も沖縄にて戦死。思わず天をあおぎ、落涙を禁じえなかった。戦後統制会社にも幾多の変選があった。我家も昭和24年1月、会社組織に変更。昭和29年、組合設立と同時に、組合と共に歩み、今日に至ったのである。其の間、現在までのお得意様は、20年、30年の良きに亘り永続しており、まさに感激の極みである。