シタツヅミしょうゆ
石塚醤油店
◆家系の覚え書き
 北前船が国内の貿易を左右していた頃、吉崎村では10軒以上も千石船を所有し、手広く松前(北海道)と大阪の間の貿易をしていたという記録が、現在も各家々に領収書など古文書として数多く残されている。当時、石塚家にも勘右ヱ門という人が居り、住吉丸、太神丸の2隻を所有して多大な財産を築き上げた。が海難事故にみまわれ、しかも、これまでの帆船と外国より輸入され活躍しだした蒸気船との切り換えが始まった為、船主の仕事をやめ、呉服商紺屋質商を経営した。
 2代目襲名の勘右ヱ門は、1代目が厳格過ぎたので、2代目襲名後、長女あいを山代温泉白銀屋へ嫁がせた後、長男信次郎始め4人の子供を残し、襲名後3年(45才)で他界した。
 信次郎は吉崎小学校を卒業後、当時としては数少ない金沢中学校へ進み、そこを卒業する。父勘右ヱ門が死亡したので20才で家督相続をし、21才で吉崎村収入役として活躍した。(明治42年度吉崎小学校卒業写真に収入役として写っている)続いて石川県三木村永井の坂野ふでと婚姻、現戸主、恒が誕生し、弟も生まれるが1年で他界した。相続を機会に醤油業を始めようと、中学校の同級生であった金沢市大野町直源醤油醸造元で醸造業を習得した。大正元年の頃だった。工場も蔵3棟を増改築し、従業員も金沢より杜氏と2、3人を雇い入れて一応軌道に乗り、販売も出来る様になった。しかし、これからという時に急性肺炎で危篤状態に落ち入り、急遽、弟順三久を青森より呼び戻し、「軌道に乗った醤油業と妻ふでと2才の恒を頼む。」と病床より手を合わせて弟に頼み、彼も心よく承諾した。そして安心したかの様に26才にて他界した。
 それからが順三久の多難な人生が始まった。当時彼は弱冠19才で、兄嫁と姪をかかえ悪戦苦闘の毎日だった。ところが1年後、今度は兄嫁ふでが3才の恒を残し、信次郎のあとを追うかの様に他界し、文字通り順三久が姪恒をかかえ込むことになった。周囲の者は親族会議を開き、順三久に家督を相続する様に頼んだが、彼は直系の恒に家督を譲り、自らは後権人として家業を継続した。そして大聖寺町より大杉琴子を嫁として迎え、商売は順三久の人柄と商売熱心さとで順風満帆の如く拡張し、従業員も増えていった。そして、得意先も加賀近在から大聖寺、山代温泉へと拡がり、どうやら家業が安定してきた。
 当時2才であった恒も、いつの間にか県立大聖寺女学校へと進学し、卒業と同時に養子をさがし、縁あって芦原町波松の素封家谷川茂右ヱ門氏の3男、正を、順三久に実子が無かったので養子縁組をして恒と結婚し、どうやら順三久も後権人としての責任が終る様になった。若夫婦の間に1男1女も生まれ、正も順三久以上にお得意さんに人気があり、順三久も一応安心し、家業を正に引渡した。そして自分は、青年時代に夢見た青森での牧場経営の準備を始めたが、おりしむ支那事変が勃発した。昭和12年、2回目の召集令状が正にも舞込み、彼は妻(25)と長男邦雄(4)、長女琴代(2)を残し、鯖江36連隊へ上等兵として入隊した。出征する正の見送りには、お得意さんが遠くから来てくれて、人垣ができる程だった。そして、正の消息はつかめないままに、昭和13年5月16日、北支中陽離石で戦死したとの公報が入った。ここまで築き上げてきた順三久の嘆き落胆は、想像できない程だった。当時吉崎村では支那事変の戦死第1号だったので、村葬として東別院で盛大に行われた。生前の正の人気そのままで、近在の人達の長蛇の列が今でも語り草になっている。
 またも恒と子供2人を残されて、順三久の第2の苦難が始まった。戦局は第二次大戦へと拡大され、次第に状況が悪化して従業員の召集が相つぎ、商売も思う様にできなくなった。そして合併問題も出てきて、ついに三国町の内田醤油株式会社と合併し、彼は三国へ出張して自宅の方では店先の小売りだけになった。しかし、第二次大戦終局の頃、吉崎に大日本酒精株式会社名のアルコール会社が軍管轄で設立され、彼は取締役として活躍を始めた。又持ち前の努力と人柄で村長一期を務め、戦後にも村長一期、農協組合長、町村合併後の農協理事、保護司等、数多くの役職を30年以上も続け、吉崎の名物男として人気を得ていた。
 終戦を機会に内田醤油から分離して、自宅で再び醸造に入った。諸味を蓄える方法として、金沢の直源醤油から製品を導入して増量しながら諸味を蓄積した。丁度その頃、順三久の弟栄三久が東京の大空襲で焼け出され、当家に疎開していたので、2人で戦前の御得意さんの拡張に乗り出した。
 少しずつ軌道に乗ってきた頃、恒の長男邦雄が県立大聖寺高校を卒業したので、早速後継者として当時の福井県醤油工業協同組合の理事長の紹介を戴き、日本醤油協会内の渋谷芳一先生の研究室へ入室した。そして分析を習得し、研究室より第2回醸造発酵夏季講習会も受講し、冬期は東京都南多摩郡の三沢総本店に無報酬で研究生として入って醸造のイロハから勉強した。しかしすぐ帰郷をせかされ、帰郷後は戦中戦後の統制経済で失った石川県の御得意先の開拓に従事した。少しずつ販路拡張に成功し、昭和36年11月、大聖寺町より浜口利佐を嫁とした。祖父順三久もこの頃にはどうやら安心できる日々を送る事ができた。
 邦雄の長男も出生し、徐々に蔵の機械化も進んで、営業面も順調に進んだ。丁度その頃、再び企業の合理化、協業化の制度が始まり、制度の先取りとしてフク醤油を中心とした北陸醤油生揚協業組合への加入を考え、順三久と相談し、思い切って加入した。
 石塚家中輿の祖ともいうべき祖父順三久は、昭和50年3月に波乱の人生を終えたが、最後まで後権人として恒の名儀で押し通してきた男の意地をみるにあたり、石塚の家系は祖父順三久無くしては語られないのである。現在、我が家は祖母琴子と母恒、私(邦雄)、妻利佐、そして順章、紀広、友三の7人が、平和に家業繁栄に努力している。