マルコーしょうゆ
岡松醤油醸造場
 初代岡松幸太郎が生まれたのは、旧長畝村篠岡であった。農業と山林業を生業としていたが、明治42年頃農業をあきらめ、現在地旧高椋村末政に店舗を構えて、よろず商いと同時に醤油の小売りを始めたのが醤油との出会いであった。大正8年、離れを壊してその後地に工場を建て、醤油醸造業としての小さな基盤を作ったのである。
 どうにか、醸造業として軌道に乗りかかって3年目、不幸は早くもやってきた。大正11年5月31日、妻ことが42才の若さで他界、翌12年8月2日、後を追う様にして幸太郎が、4人の幼い子供を残し49才で世を去った。この時期が、我が家にとっての第1苦難時代であった。
 ニ代目捨吉は、まだ10才の子供であった。姉しげ尾が急遽同村、油為頭、野村家の次男長を婿に迎え、家業をついで3人の兄弟を養うこととなった。
 高等科を卒業した捨吉は、森田町の瓦屋へ奉公に出されたが、自分の性に合わないと、その日の内に荷物をまとめて裏口から家へ飛んで帰った。丁度この年、姉夫婦が福井へ分家して商売を始めたので、そのまま家業を引継ぐことになった。家業は引継いだが、諸味がないので丸岡町長侶商店の小売りをし、親戚へ預けられていた弟春意を引き取って、兄弟2人だけの生活が始まったのである。捨吉15才、春意8才であった。翌昭和4年、近所の人の世話で同字中瀬家の長女まさ尾と結婚、同年より仕込みを始める事が出来、昭和6年、永平寺鉄道開通と同時に売出しを始めた。当時、菊は1升40銭、上30銭、取合せ25銭、並20銭であった。ちなみに、当時の理髪代は30銭、清酒1升70銭であった。
 昭和12年8月21日、捨吉出征、同14年12月、現地除隊後直ちに華北鉄道に入社、同15年3月、家族全員が山東省済南市へ移住し、その間醤油業は休業となった。昭和17年8月、捨吉の長男幸雄が帰国し、祖父の家より中学へ通う。この頃より統制が敷かれ、醤油も配給制となった。祖父は幸雄の名前で登録を取り、醤油業を続けてくれた。
 終戦となって昭和21年3月、済南より捨吉家族が内地へ引揚げてきた。引揚げ者とはいっても住む家も有り、味噌醤油配給の小売り登録もあった為、恵まれた方であった。資本金としては、引揚げ地でもらった証紙の貼ってある金5,000円と、郵便貯金7,000円であった。翌年から仕込みを始めたが、原料はすべて統制で、塩は波松まで自転車で何十回となく通って集め、大豆小麦は近所の農家より買集め、ようやく仕込みができたのである。
 どうにか生活もできるようになった時、第2の不幸がやって来た。昭和23年6月28日の福井大地震である。住宅も工場も完全に潰れバラック住いとなったが、桶に諸味があるので工場は早く建てねばならず、それでも12月にはどうにか建てる事ができた。昭和24年8月8日、現在の住宅を建築、この頃自動三輪車1台を購入した。ガソリンがまだ配給制の時代であった。昭和25年、西瓜屋に出張所を建築、長男幸雄も高校を卒業し、直ちに家業を手伝う事となった。昭和26年、次男正美が高校を卒業、出張所務めとなるが、翌春大学入学を期に辞し、長男幸雄が結婚してその妻ちさ子が変って出張所務めとなる。当時、幸雄は22才であった。
 諸味も少しずつ殖えていった。当時の我が家の仕込み方法は、麦炒りは手廻しで、それを引き臼で引割り、大豆もコシキで蒸し、麹も裸になってムロに入り、手入れをしたものだ。搾るにしても昔ながらの天秤で、石をいくつもぶらさげて搾った事が、今にしてはなつかしい思い出となった。
 現在は生揚を買っての製造で、諸味の攪拌も、搾る事もなく、配達をするにしても自動車で簡易にできるが、天秤でかついだり、荷車で運んだり、自転車に乗って雪道を配達したりした昔の事を想う時、何とすべてのものが変ったものだと感ずるのである。