フジジュウしょうゆ
野村醤油株式会社
◆創業のころ
 初代、野村重吉−明治10年代に現在地に小店舗を構えて味噌醤油を商った。これが「野村醤油株式会社」のおいたちである。初代重吉は気風質実剛健で、経営の才に富んでいた人物と伝えられている。先代は桶屋、重兵衛といい、古くから手広く桶づくりを営む老舗であったという。重吉がこれを切り替えて味噌醤油業としたのは、新時代を見こした先見の見識を持っていたためだろう。創業時の辛酸を持ち前の根気と誠実さで克服して、見る間に商売を軌道に乗せていった。特に重吉の妻ちなは、お経をそらんじて日常人にも教えるほどの仏教信者で、信心深さから使用人なども粗略に扱わなかったので、男衆たちも徳を慕って陰日向なく働いた。重吉の身を粉にして働く努力に、この妻の縁の下の力も加わって、次第に営業も順調に伸びていった。初代が誰しもそうある如く、重吉も商売熱心一筋の地道な苦闘の一代を送った。創業からおよそ20年の商歴で、当時すでに商家の信用を確立しており、今日の会社の基盤を築いた。明治30年11月没。

◆商売の進展
 ニ代目、重太郎−重吉長男の重太郎は性温厚篤実で、よく初代の意を継いで仕事一途に打ち込んだ。毎日早朝から土蔵の圧搾場へ仕事着姿で籠り、黙々と骨身を惜まず働いた。その仕事ぶりの甲斐もあり、また先代の遺徳と信用のお蔭もあって、この時分は商売も繁盛する一方だった。店の名はどこへ出しても通用した。当時面谷鉱山(現在の和泉村)が盛んな時で、鉱山の御用店となった。夜明け前から馬車が味噌醤油を積んでどんどん面谷へ運んだという。店先も人の出入で賑わった。重太郎は母に似て熱心な仏教信者となり、仕事を終えた毎夜寺詣りを欠かさなかったと聞く。平素使用人を大声で叱るということはかってなく、格別の面倒をみるなど優しさに溢れていた。かなりの田畑があったが、年貢を収める人が「今年は不作だったので年貢をまけてほしい」と頼み事をされると無理じいが嫌な気質とあって、ついには余分な田畑を手離してしまったなどの逸話も残っている。それ故世間から「仏の重さん」と呼ばれ信望を集めた。その反面常に大工の槌音がしないと気分が滅入るというほどの普請好きで、約500坪にもなる家屋敷や工場の増改築をしたり、または西谷の山地を手に入れて管理人を置きオウレンづくりに精出すなど家運の発展に力を注いだ。仕事熱心さから商運も進展の一途をたどった。大正11年には商品の県内1等賞を獲得、県知事から賞を授与された。次いで全国の醸造品評会で1等銀牌を受けるなどした。日を追うごとに業績が挙り、大正時代の家業振興に成果を挙げた。仕事の虫の生涯だったと聞く。昭和7年10月没。

◆家業の確立
 三代目重次郎−重次郎は一人息子で、幼時大切に育てられたが、中学校を卒業した年に大病を患った。年も若かったため一時長姉が中持で家業の一切をきりもりしていた。しかし重次郎は大病で確固たる人生感を得た。そして後に父の名を継いで重太郎と改名し、商売に心血を注いでいった。昭和14年に大野郡醤油味噌工業組合理事長に就任し、業界の振興に務めたばかりでなく、また16年には大野地区食料品小売商業組合理事長にもなり、地区内300余店の各種商店を統率して、地域商業のかなめ役を果した。太平洋戦時中の事、末期になって諸物資が窮乏した折には、曹洞宗大本山、永平寺に特志して、醤油を供給したこともあった。このため永平寺はこの恩恵にいたく感謝したもので、後に昭和42年感謝状を贈られ本山御用達の免可を与えられた。一方重太郎は32才で大野町町会議員に初当選し、5期にわたる町議を務めた。ほか教育界などの役職を兼ねるなどし町政および各分野での活躍も多かった。営業面でも次第に販路拡張をなしとげ、地元や県内は言うに及ばず、岐阜県や石川県にも売りさばいた。大正から昭和前期にかけて、利財を増し家業を確立した。信念と実行力に満ちた星霜だった。昭和27年1月没。

◆機械合理化へ
 4代目、重三−大蔵省醸造試験場を卒業し、重三は家を継いだ。戦後醤油検査官となり、県下一円を技術指導して回った。そして技術の発展に精魂を傾け、工場には新鋭機の自動製麹機を県内ではトップに導入し、また諸味貯蔵場や圧搾場などの新工場を建設した。この様に機械化、合理化を次々と推し進めていった。例えば次の様な工程である。29年−温醸室、32年−NK式蒸煮缶、33年−連続火入機、諸味輸送機、諸味貯蔵場コンクリートタンク、34年−12吋押切圧搾機、35年−16吋押切圧搾機、ビン詰機、37年−製法特許(天野式)自動製麹機械、41年−全自動式ボイラーなどとなっている。自家ばかりではなく県醤油工業協同組合理事を務め、県業界の技術振興に大きく寄与した。35年日本醤油技術協会から感謝状を贈られた。こうした功績が実を結んで44年には全国の品評会で金賞を獲得している。他面大野町消防団長やライオンズクラブ会長などの役職を歴任し、地域の発展にも貢献している。家庭にあっては父に代って9人もの弟達の面倒を見、皆一人前に育てあげた。従業員は住み込みも含めて多い時は10数人も及ぶ大商となっていたが、寛容温和な人となりで、従業員はもちろん他人の世話もよく引き受け徳をほどこした。激動の昭和を利発に生きた人だった。昭和47年10月没。

◆会社の設立
 当代重一郎が五代目である。東京農業大学醸造学部卒業。直ちに家業に従事している。父没後間もない49年4月、これまでの個人商店から脱却し、「野村醤油株式会社」を設立、代表取締役となって、経営合理化に務めている。52年全国醤油工業協同組合連合会から会長賞を受ける。父祖代々の遺産と信用を失なわないよう肝に命じて、若輩ながら懸命に頑張っている現在です。なお屋号は「ノムラ・富士重」として、昔から通っている。