三星しょうゆ
渡辺醤油醸造元
 今より約800年前に臨済宗を開山された栄西禅師と共に、当時の中国(唐)に渡り建築の規矩を学び、帰国後建仁2年京都東山に建仁寺を建立する。この寺は天皇の発願により建立された寺ですが、京都は何回も火災に遭い、当時を偲ぶ建築物はないように思われます。今年の5月に建仁寺の寺宝展があり、寺に参りその規模の大きいのに感心いたしました。またこの寺末寺には、東山に高台寺(北の政所菩提寺)伊達家菩提寺 瑞巌寺 福井藩松平家菩提寺大安禅寺等の寺院があります。
 醤油業にかかわりをもったのは、非常に浅く、大正11年、父清治の時からである。
 清治も大工として若い頃から働いていたが、その頃、友人とニ人で片手間に醤油の小売を始めた。しかし友人の家庭の破滅から離れていったため、一人で経営することになった。小売りを2、3年つづけたが、利益の少ないことなどから、醸造に目をつけた。そして大正10年、醸造用倉を建築し、中古桶などを買集め、11年には創業した。その間、乾側中丁の盛川家の長女、きくのを嫁に迎えた。そして男3人、女2人の子宝にめぐまれ、家運も上昇していった。
 しかし第二次世界大戦が始まる頃には、次第に原料も手にはいらなくなり、次第に営業としては困難をきわめていった。一般家庭では、飯米にさえこと欠く様になったが、不幸中の幸、醤油用原料も利用出来、又醤油も高価品となり、物々交換にも役立った。又、“スケール”という塩分の含んだ白土を四国から買い、これから塩分を取って、近くの家に分けたこともあった。塩の代用品である。
 そのうち、私(長男 定治)も高校卒業と同時に家業をついだ。そして阪谷村花房の桑畑家より妻を迎え、商売に精を出した。最初の頃は自転車に何本も樽を積み、砂利道を何里も配達し、肉体の酷使であった。次第にバイク、自動車と近代的になってくると、昔の事が夢のようである。
 工場内の設備も合理化につとめ、年々機械を入れていった。それにつれて販売量も増したが、一時、農協婦人部の購売運動には手の焼くことが続いた。しかし現在では、水圧機、自動製麹機、自動ボイラー、連続火入れ機、蒸煮缶と一応のものは出来上った。規模は小さくても、我が企業の充実感を味わうものである。
 現在、小学6年の長男、幸治に夢をたくしている。と同時に希望を大きく持つことは大切であるが、それ以上に立派に子孫が繁栄することを願っている。