あらきのみそ
荒木商店
◆我が家の歴史
 時期ははっきり分らないが、初代の木勢喜兵衛は88才の高齢で大正5年9月に亡くなっているので、この七間通りで店を始めたのは明治10年頃ではないかと思う。
 百姓の次男坊だったので、町で世帯を持ちたくてもそれができず、知人の町民の家の子供になってこの七間通りに店をかまえたと聞いている。始めは田舎の家で米や雑穀を買ってきて、それを売って商売をしていたが、米を売買するうちに糀をこしらえて売ることを習い、米屋と糀屋をしばらくしていた。糀が売れなくて沢山残った時に考えたのが、それを使って味噌をこしらえて売るとよいとの考えで、その味噌がおいしくてよく売れたので、それ以後ずっと味噌と糀を扱ってきた。今でも田舎の人は「あらきの糀や」と言った方がよく分るようだ。その当時はまだ自家製味噌が主流であったので、糀が売れれば味噌が売れず、味噌が出れば糀の量が少ないという相互関係で、いずれも生計をたてるのに充分な企業だった。そしてその量の推移としては、次第に味噌の売上げが増していった。今では「あらきの味噌」も大へん皆様に愛用されて、遠い都会におられる方々からもふるさとの味と言って喜ばれている。
 福井に組合ができたのは、四代目、賢次郎(元雄の父)の時代だが、本当に色々な事が思い出され、戦後のあの組合活動の皆様の顔が目に浮んでくる。大野の役員をしていたので組合存亡にかかわりのあるあの事件にあって、毎日毎日組合へ出かけて行き、夜もねないで心配したものである。あの頃よく主人が言っていた方に、三国の藤野さん、武生の大井さん、この方もとっくに亡くなられているが、本当にお骨折り下さったのだと思う。それらの波乱をのりこえ、組合員の方々の強い団結で順調に運営され、今日の平穏な組合活動をみて、心から喜んでいる。これも遠い昔の思い出話になってしまった。
 さて、現在の様子は、というと、我が家は昔ながらの店がなつかしいと皆様に言われ、また、商売も派手な商売でないので、この田舎町にふさわしい様にと考えている。その為、店舗の改装もせず、出来るだけ昔の雰囲気を残そうとつとめている。お客の柄も田舎の人が多いので、どうしても私達もこの気持ちがとれないのである。昔から味噌の販売形式は店頭売りで、御用聞きして配達することがなかった。最初の頃は天秤計を使用し、包装も竹の皮に新聞紙であった。夕食後、竹の皮に水をかけ、1枚1枚布でふいて整理し、翌日売る為の準備をした事が今では懐しい。味噌も昔の通りの製造法で、大豆と糀と塩をまぜて仕込むだけで1年おいて、それを売る。誠に幼稚な商売をしているので恥しいが、勇気を出して筆をとった次第である。
 冬になると、「はまな味噌」も少し作って売るが、これもふるさとの味だと言って皆様に喜ばれ、都会に出ておられる方も毎年待ちどおしいと言っておられる位である。
 先祖の残してくれたこの「あらきの味噌」も「糀」も、今日まで地味ながら5代続いてきた。その間、特別な機械化もせず、手造りの心のこもった味噌造りが我が家の伝統であった。販売量は時代によって増減があったが、それだけに平穏な時代もあり、苦しい時代もあったという事だろう。連日連夜、身体をいとわず働かねばならない時代もあった。しかし、いつの時代も、少しでもよい味噌をつくり、りっぱな味噌屋を続けようと家族一丸となってきた。
 最後に、私の店は「大野の朝市」で有名な七間通りにありますので、大野にお越しの節はお立寄り下さい。