マルヤマしょうゆ・みそ
山元醤油醸造場
◆創業のころ
 四方を、高い山々に囲まれたここ、大野盆地で、初代山元弘が、醤油業を始めたのは、昭和の初期である。
 生家は、福井市で醤油業を営む、山元菊丸の次男として生れ、旧制の中学を卒業すると、すぐ父が本町通りで、醤油業を営んでいた松山醤油店から、仕込蔵、諸味、権利等一済を買い、これを仕訳けとして与え、そして堀家から妻とみを迎え、弱冠18才で世帯を持つと共に、独立して商売人としての第一歩をふみ出した。
 若い2人にとって、商売を始める事は大変な事で、周囲の人々の暖かい励しや援護によって、又持ちまえのねばり強い根性と努力によって、商売も順調に軌道に乗りはじめた。従業員も2、3人片腕となって真面目に働いてくれた。間もなく20才となり、現役として鯖江に入隊する。
 当時は、現在と違って設備も貧弱なもので、作業はほとんど人力によって行われていた。諸味を搾るにも舟の上から石をつり下げて行っていた。その後、手押しの機械を買い入れて搾るようになった。又、大きな釜で火入れした醤油を、店にある桶に移すのに、小さい桶に汲んで、それを肩にかついで運んだものである。町へご用聞き回りには荷車に醤油を詰めた徳利を一ぱい積んで、毎朝出かけて得意先を回った。田舎の方へ回る時は、運搬用の自転車の荷台と、両方のハンドルに、樽を一ぱいぶらさげて、得意先回りをしていた。
 又、越冬用(大野地方は、冬、雪で交通が途絶えるため、翌年の春までの食糧を貯える事にしている)の頃になると、先に註文をとりに回り、それを荷馬車を頼んで、それに樽を満載して運んだものである。穴馬(和泉村)までは、現在のように道路が整備されておらず、狭くてガタガタ道を、のんびり荷馬車に揺られて醤油を運搬する光景は、現在と比較して隔世の感がする。

◆戦中戦後の激動期
 その間、上海事変に行き、又支那事変にも応召したが、負傷して内地へ帰還する。昭和13年には、上田醤油店が廃業したため、そこの土地、建物等一切を買いとり、七間通りヘ進出し店舗を構える。機械なども1つずつ増やして行き、次第に工場としての形態が出来てくる。又時代の先を読む能力が人一倍するどく、常に新しい感覚を持って商売に打ち込んでいった。昭和10年頃、当時大野地方ではまだ2、3台しかなかった自動三輪車の免許をとって、これを運転していた。このようにして昼夜の区別なく一生懸命働き、販路も次第に増えていき、生活にもゆとりが出来るようになった。
 そのうち、大東亜戦争が始り、18年6月、ついに3回目の召集令状が下り、南方方面の戦場に向うことになった。戦争もこの頃になると、物量を誇る連合軍に押され気味で、じりじり後退しはじめた頃で、本人も行先が最前線であるだけに、死を覚悟で壮途についた。留守を守るとみは、商売を引き継いで、店のものと一しょになって働いた。統制がきびしくなり、原料の入荷が欠乏するようになり、醤油の製造も大幅に制限されて、配給制度となる。
 昭和20年ついに敗戦となり、弘の戦死の公報が届いた。昭和19年3月26日、南海の弧島ブーゲンビルに於て、大激戦の末、遂に帰らぬ人となったのである。(34才)予期していたとはいえ、悲嘆は大きかった。大黒柱の夫を失い、当時女学生の長女を頭に7人の子供の養育に、又商売の方にと、終戦後の物資の乏しい時代を生き抜く事は容易ではなかった。然し、醤油の原料を自家用に使用したため、食べる事にはあまり不自由はしなかった。又当時は醤油は貴重品であったため、いろいろなものと物々交換することが出来た。このようにして、夫の残していった遺産を失くしてはいけないと思い、一人ニ役の重荷を背負ってよく頑張った。

◆苦況からの脱出
 そのうち、長男の弘一が、又続いて次男の啓司も、学校を卒業すると家業を手伝うようになり、長女の婿藤井忠雄も、苦況を乗り越えるため、昭和28年、これまで勤めていた警察を退職して、醤油業を手伝うようになった。他に従業員も2人、3人と人手も漸く揃った。
 醤油の統制が廃止されて又、元の通り自由販売となり、以前のように一軒ずつご用聞きに回るようになった。原付二輪車で田舎回りをするようになり、小型トラックも買って、大量に運搬出来るようになり、販路も又次第に増えていき、戦前の出荷台数を大きく上回るようになった。
 40年9月の西谷村の風水害で村全体が他へ移住する事になる。又和泉村に九頭竜ダムが建設される事になり、上穴馬部落が水没により移住する事になり、得意先をかなり失う事になる。
 昭和42年に長男の弘一、美山町より妻を迎える。又7人いた子供達も結婚して、それぞれの家庭をもち、やっと永年の苦労から解放される。

 昭和41年 作業場を取り壊して鉄筋造2階建(2階木造)を新築。自動製麹装置を設置。
 昭和46年 水圧機を入替える。
 昭和48年 原料倉庫を取り壊して鉄骨2階建に新築。
 昭和49年 第二原料倉庫を中津川に建築。
 昭和50年 自動壜洗機を設置。
 昭和53年 全自動ボイラを設置。

 このようにして、時代に即応して、よりよい醤油を製造すべく、設備の近代化へ、又合理化へと着々と進めていった処、昭和52年10月3日、若い時から女手一つで苦労して、現在の我が家の基礎を築いた、とみ 67才で亡くなる。
 これから生存競争の激しいこの業界にあって、先代が築いてくれたこの商売に情熱を持ってあたり、益々発展させたいものである。