キコウしょうゆ
松屋醤油味噌醸造場
 松村家の系図に松村家家紋は丸に三蓋松、是迄系図は相わからずとある。わが家の祖先は福井藩主松平但馬守様のご家臣で禄200石を与えられ、ご用人役を勤めておったが、但馬守様お国替の石切、町家に下り勝山袋田町に住み代々系図武具等伝えて来た。延保三乙卯年の大火に類焼し祖先より、相伝え書類系図を焼失し大刀・鎗、鞍、鐙等が残ったとある。即ちこれ以前は知ることが出来ず此の時を以て初代として、それ以後の系図がある。
 元禄4年7月小笠原土佐守様が勝山藩主となられてからも、武門の筋目として家格を誇っていたと勝山市史にも記されている。その後町年寄となり最高の家格を与えられ、経済的にも政治的にも活躍をして来たことが古文書より知ることが出来る。
 その頃はこれと言った家業もなく過して居たようである。江戸時代細野口銀山の開発を行ったり、反古になった江戸末期の借用証が束になって出て来ている事などからして、割合に余裕ある生活であったようだ。
 明治に入り現在の勝山の繊維産業の元祖とも言うべき製糸業を知人と共に興したが結果的には、事業は失敗した。このようにして収入よりも支出のかさむ生活が続き、何等かの対策が必要となり明治24年現在のキッコーマン(野田醤油)の前身の1つである李白の蔵に頼み、醸造技術を身につけた杜氏を迎えたのである。
 どのようなルートで李白の蔵と関係があったのか知る由もない。醤油の醸造方法はすべて銚子方式で行われ、使用された醸造器具も銚子式であったと聞く。杜氏一家を醸造場内に住わせての商売であり、今にして思えば到底想像出来ない優雅なものであったようだ。
 翌明治25年5月5日男の節句に開店・順調なすベり出しをしたと聞いている。杜氏はその後も李白の蔵その他銚子より交替要員を迎え、このような状態は明治末期まで続いた。その間、杜氏の中には勝山に、福井に土着して醤油業を営む人も幾人かおられ現在も続けておられるご子孫もおられるやに聞いている。
 特別の給料と家族の生活の面倒一切をみる雇用関係は、負担も大きく、時の番頭をして技術を習得せしめ、漸くにして千葉県との縁を切ったようである。
 万事がこのような調子であり、武士の商法ではないが、初めての自分自身で稼ぎ出す商売には手を焼いたようであり、かかる状況では到底利益の追求と言うところまでは行かなかった。創業者十四代由兵衛にかわり、小林家(美濃屋)より婿養子に入った十五代由兵衛(小次郎)は、幼少より文学に志し、明治の文豪とも交際をし、自分も又小説を書き時の読売新聞に連載小説を書くなど文筆を良くしたのである。今も膨大な資料や小説類から往時を偲ぶことが出来るのである。商売と文学と言うことになれば文学にウエイトがかかったと聞く。そして又若くして病死した。
 十六代なか女は小次郎の未亡人であり、十三代由兵衛の息女であるが、気性も強く女手でもって良く切り廻し、醤油業も軌道に乗せる。然し天は二物を与えずの如く一人娘の和歌女を15才の若さで失い、跡継ぎに従姉妹のとしを小林平三郎家(美濃屋)より迎え、北郷村東野の田中家より誠一をとしの婿養子として迎える。時に大正5年である。
 商売も順風満帆、石数も年毎に増え、それまで明治29年4月13日の勝山の大火で焼失し仮普請であった店舗兼住宅を、現在の町屋風の商家に建て直したのである。昭和2年に完成、新築価格2万円余と聞く。現在では到底建てることの出来ない代物であり、ご先祖に対し敬意を表するのである。かくして平穏な歳月が流れ、満洲事変、日支事変と我が国も戦争に突入するのであるが、大東亜戦争も熾烈の度を加え出した最中、第十七代由兵衛(誠一)が昭和17年5月突如病に倒れ同年9月他界した。
 欲しがりません勝つまではの合言葉の如く、世は統制経済となり隣保班よりの配給で生活する日々であり、勿論醤油の原材料は申すまでもない。かかるもっとも大切な時に当主を失い、残された妻子は途方に暮れたのであるが、又反面、統制経済のお蔭で女・子供でも商売が出来ると言う恩典もあったのである。どうにか戦前戦後の混乱期も乗り越えられたが、余りにも女には負担が重過ぎた。戦後の物資不足と闇経済の中では女主人に理解出来るものではなかった。
 将来娘きみ代の婿にする予定で養子を貰うことに親戚の衆議一致し、当時大野郡上庄中学校の教員をしておった上庄村東山の明石家の五男季夫を、十八代目の当主として昭和24年8月入籍する。百姓の生れで、学校の教師であり商売には未経験であったが周囲の指導と援助もあり日々なじんで行った。只々スポーツで鍛えた頑丈な体は、この際何よりの資本であり、従業員と共に働き、醤油味噌の醸造に一からの手習いを始めたのであった。
 業様がわかるにつけ、何時かは撤廃されるであろう統制経済を思う時、来るべき自由経済に備え諸味の蓄積に専念すべきであると活動を開始したのであるが、何しろ時が時だけに簡単に“物”が手に入る状況ではなかった。今振りかえれば笑い話にしかならないかも知れないが、農村を廻り製油会社を尋ね原料の買い集めをしたのである。金沢まで走り塩酸を手に入れると言う苦しい時でもあったが、又やれば成る楽しい時でもあった。そして統制撤廃・・・。
 荷車に4斗樽を積み町の中を売りに出る。醤油は面白いように売れた。どこの蔵とも充分な諸味がある訳ではないから、不当な競争も起きない。実に良き時代であった。蔵の設備をある程度充実させたのも此の頃である。
 然しこの頃県醤油味噌工業協同組合、即ち現在の前身が倒れ(他記録にあるのではぶく)役員として責任の一部を負担させられた苦い経験もあったが、前述のような昇り調子の商売に助けられ、さしたることもなく危機も切り抜けることが出来た。
 その後全ての原材料はあり余る程に出廻り、当然のことながら競争の激化となり、乱売・安売り、加うるに石川県大野よりの波状攻撃と、防衛に必死の苦しい時も続き、時には無理な競争もさせられたこともあったが、幸いにして地区内の同業者とは格別のトラブルもなく推移出来たことは、地区組合の団結にも撃り人間関係もこまやかになり、割に平和な商売が出来るのであった。
 昭和45年、18代当主季夫が勝山信用金庫の理事となり、翌昭和46年10月勝山・大野両信用金庫の合併となり、常務理事として越前信用金庫に勤務するようになる。家業を妻のきみ代に譲り現在に至っているが、最盛期には従業員も8名余使用しておったが、過剰サービスの廃止につとめ、合理化により5〜6名に減員したこともあり、又優秀な従業員にも恵まれて細々ながらも家業を維持して来ている現況である。