マルイシみそ
石畝岩七商店
◆創業の頃
 初代石畝岩七が麹味噌醸造業を始めたのは、明治38年12月8日付大野税務署よリ交付された麹製造販売の免許証によりはっきりしている。創業の頃は麹製造味噌の仕込等全然無経験なので、永らく麹味噌の製造販売を経営されていた中屋の先生(藤田写真館主人の伯父)に、麹味噌はまな味噌に至る迄親切に細かい御指導を受けた由で、亦先生の秘法は飛騨の高山より導入されたものだと聞き及んでいる。創業より昭和30年頃迄の50年間は麹製造販売が本業で、味噌醸造販売が副業であった。それが時代の変遷と共に味噌が本業になり、麹が副業の様になった。初代岩七が創業の頃は諸道具設備、製造方法、温度の取方、お得意様の開拓等あらゆる苦難の道を歩んだ事を聞かされている。
 創業3年目に味噌仕込の塩の量を間違えて、蔵の仕込味噌全部が酸敗して、本家より分家する除に初蔵祖父より戴いた800円(明治38年頃)当時としては結講な別家であったらしい尊い資本金が一度に半分になってしまったので、父母共に飯ものどを通らず、手を握り合って泣き伏したと聞く。その先代が第一次欧州大戦後の大正7年11月17日に流行性感冒(当時は成金風邪と言い好景気で機業場等は俄大尽になった時で今の急性肺炎である)にて35才の若さで黄泉の客となった。
 それよりニ代目岩七(幼名博)が小学校6年生(13才)で家業の麹味噌醸造販売を承り継いだ。以来5年間程は何も知らない子供がやるので、当然ではあるが満足な麹が出来るのは稀で、大部分は売れない失敗品が続いた。麹室の中で小生と母が泣き乍ら手入れをした事も度々であった。当時は糀屋が11軒味噌屋が4軒程有り販売面の競走は想像に絶するものがあった。こんな製造販売共に難儀な仕事を止めて商売替をしようと思い、母に相談した処、今が一番苦しい処だがら此処で商売替をしたら、創業以来亡き父があらゆる苦難を乗り越えてここ迄来たのが、水の泡になるではないかと強く叱られ、なる程母の言う通りだと思い直して、小さい身体に鞭打ち乍ら研究に研究を重ね、努力に努力をして、18才の時から失敗をせぬ様になった。こんな苦難の道を歩んだので酒、煙草は言うに及ばず、どんな遊びもする暇はなかった。今は亡き母も33才の若未亡人が、なりふり構わず一生懸命に働いてくれた。そして13才の小生を頭に妹3人を育てて下さった。お陰様で長女のはるは教師となり、次女のしづゑは看護婦に、末っ子のすゑをもお針に通う迄に成長した。
 大正12年9月1日の関東大震災による財界のパニックで勝山銀行の破産取付騒ぎが起こり、亡父の汗と脂の結晶である定期預金壱千円、子供の貯金壱千円程、合計式千円余が(当時では大金)倒されて、運転資金にも困る様な事想が発生した。けれども此の苦難もどうやら切抜けて営業を続ける事が出来た。昭和3年3月3日亡妻ふさゑと結婚、長男紀勝、長女すみゑ、次女八重子と3人の子供を育てて呉れた。終戦前後には、米、味噌、醤油、塩魚類、衣類に至るまで配給の昭和15年度には統制経済が愈々厳しくなり、少ない物資を公平に分配する為の機関として、福井県醤油味噌工業協同組合、福井県麹工業協同組合が設立された。麹工業協同組合は先にも述べた様に、本業である関係上勝山を代表して理事となったが、味噌醤油組合へは加入しなかった。これがそもそもの誤りであった。統制経済と言うものがどんなものか詳しくは知らなかった。ところが次第に原材料の米、大豆、塩等が入手困難となって来た。今迄の問屋は次々と廃業していった。
 昭和16年12月8日国民の誰もが忘れんとして忘れる事の出来ない真珠湾攻撃、米英に対する宣戦布告である。昭和17年度には全然商売が出来ない状態に迄追い込まれて来た。此の時である、小生の生涯を通じてこんな嬉しかった事は後にも先にも無い。それはお隣りの一本義醸造元社長久保直正殿である。この社長様の並々ならぬお骨折で福井県醤油味噌工業協同組合へ加入させて戴いた。お陰様にて始めて組合より原材料の大豆、塩、米等の割当を受けた時の感激はよく筆舌の尽す処ではない。久保社長殿のためならば、身命を抛って尽さねばならぬと思っている。
 当時活躍されたお方は理事長を勤められた野坂、藤野、畑守、大井、理事では梅谷、黒田、水島、野村、久保、山元、多田、橋本、牧野の各氏、職員では関捨男氏夫妻がある。醤油味噌組合と前後して統制会社が設立された。醤油も味噌も一旦納入し、それを割当にて買受け、切符と引換にも配給するのである。配給した味噌醤油の量に比例して原材料の割当があるので虚偽の申告は出来ない。味噌も醤油も配給する前に、統制会社へ見本の品を提出して検査を受け、合格した品物でなければ配給出来なかった。当時当店では味噌仕込に青い麹を使用したので、統制会社迄行く間に黒く変色して合格点も悪い。当時県の技師として竹内伊三郎先生が居られて、白い麹を使用すると色、味、香共に優秀な品が出来るからと親切に教えられた。以後は白い麹のみを使用するので、現在の様な色、味、香共に自慢の味噌が出来る様になった。お陰様で量は少ないが東京、大阪を中心とし、全国的に広く注文がある。
 小生が先代から承け継いだ大正7年頃は、仕込桶1石入20本、6石入が5本程であった。10石入等は1本も無かった。1日の仕込量は大豆6斗位で、薪で煮て、大きな臼の中で杵で餅を搗く様にして潰すのであった。仕込の時だけ男人夫を1人雇い小生が手伝いをした。人夫賃1日1円、味噌3.8K50銭、米60K10円、大豆60K7円であった。
 現在は巾4間奥行7間2階建の醸造庫に、巾2間長さ6間半の廊下が附属している。ここに袋詰室があり、設備としては仕込桶10石入16本、漉機、攪拌機、掘出機、リフトカー2台、洗米機、冷却機、崩壊機、全自動ボイラー、ステンレス製蒸桶、電熱器、軽貸物車、乗用車、鉄筋コンクリート造り麹室(地下年間製造能力32,000K)とどうやら味噌醸造元らしくなった様に思う。今日の発展を見る事が出来たのは下記従業員諸君の正直で勤勉に骨身惜しまず献身的に働いて呉れた賜で、厚く感謝する次第である。北川信雄君、原田勲君、大沢玉枝様、大平はるゑ様など従業員諸君が揃って良い人ばかりだった。
 昭和32年久保直正殿の御世話で店舗兼住宅を山本組に請負わせて鉄筋コンクリート造りに新築した。道路拡張による補助金と石川県新丸村に亡父が買って呉れた山林の売渡代金、及多田君の奨めで買った株式の売渡代金等で賄う事が出来た。これも麹味噌醸造販売のお陰様だと喜んでいる。
 昭和45年3月24日亡妻ふさゑ喘息の発作激しく深谷病院に入院したが、5月18日63才を一期として短い生涯を閉じたのである。結婚生活41年その間4人の子供の養育と姑に仕えての気兼等にて心身共に疲れ果たのだと思うと不憫でならないどうか許してくれと謝罪の気持ちで一杯である。小生はニ代目で現在72才、三代目が長男紀勝で36才嫁の智子は31才、2人の間に長男紀夫(四代目)華子の2人の子供がある。紀勝は法政大学工業部卒、智子は勝山高校卒で日夜一生懸命に味噌麹の製造販売に取組んでいるので今後の益々の発展を祈りたい。