アズマルしょうゆみそ
吾田醸造場
◆創業のころ
 初代吾田芳太郎が、当時の油屋与三兵衛の三男として生まれたのは、弘化元年11月27日であった。生家は村の草分けの一軒で、代々村の庄屋を勤め、油の製造業を主として酒造業と、醤油味噌の製造業をも兼営していた。又寺小屋を開き農家の子弟を教育していたため、寺小屋の師匠、丸岡出身の麦屋先生に師事し、書画をよくし、古文に通じ、和歌、俳諧の道にも詳しかった。当時としては、恵まれた家庭に育ったために、若い間に苦労をさせねばと、母と叔母に奨められて、明治初年敦賀県が出来た際敦賀県庁に奉職して、土地問題の整理や、地券交付の事務を担当していた。そして明治7年3月に退職して、生家から醤油味噌部門を引継いで、分家をした。それが我家の醤油味噌醸造業への第一歩であった。しかし当時は醤油の消費量も少なく、自家用の醤油を造る家庭も相当あり、1回に1升売れる事は稀で、3合5合の計り売りが多かったので、専業では経営が困難なため、兼業に味噌糀の製造、塩煙草、日用雑貨荒物、燈油等の販売もし、苦しい経営を乗り切って行った。そのうち大豆、小麦、米等との物々交換による販売も盛に行なわれる様になり、売り子も2名雇い入れ、溜桶に醤油を2斗程入れて、その上に1合枡、5合枡、杓上戸、弁当とつり銭を持たせて、天秤棒で担って近郷近在隅なく廻らせて販路の拡張に勤めた。内に不撓不屈の信念を秘め、温厚誠実な初代芳太郎の人柄は、村人達の信望も厚く、明治30年代には、相当の蓄積も出来て、隣家が北海道へ移住した際には、新築間も無い土地や宅地を買い取ったり、田畑山林等も、次第に増えて行き今日の基礎を築かれた。
 ニ代目の父安蔵が、初代芳太郎の長男として出生したのは、明治11年2月15日であった。芳太郎に劣らず、謹厳実直な人柄で、その少年時代は、明治初年の激動期に遭遇し、何もかもが実質本位で、花鳥風月に親しむ様な優雅な面は少なかった。
 学校ではいつも、首席で通したと同級生の方から、何度も聞かされた。それに父の青春時代に多くの犠牲者を出した日露戦争に出征せずにすんだ事も幸して、家業に恵念し営業規模の拡大と、生産の合理化に勤められた。兄弟も多く、子宝にも恵まれ(6男5女)出費が多かったにも関わらず、大正6年に明治初年本家より分家した際建てられた、うす暗く感じる中2階の店舗兼住宅を、当時としては、明るい感じの大きな店舗兼住宅に建て直した。
 その頃から経営は初代芳太郎から、漸次2代父安蔵に切り換えられていった。しかし好事は永続きせず、大正8年5月23日の保田の大火で(焼失戸数60戸・焼死2名)諸味倉と原料倉庫だけが半焼で焼残り、完成して間の無い店舗兼住宅も、糀室釜場等のある作業場も、その他の付属の建物も全部灰燼に帰した。しかし不幸中の幸と言うか諸味と大豆小麦食塩等の原料は、少し水にぬれた程度で異常が無く、又、圧搾機が仕込倉の中にあったため焼けなかった。平素懇意にして戴いた近親知己近郷近在の方々、同業者の方や、遠く北海道や台湾の方から迄、多額の御見舞の金品を戴き、今でも時折り当時の火災見舞受納帳を見ては大方各位の、深甚なる御芳志に感謝し、祖父や父達の苦難時代に思いを駆せる事がある。小生も当時小学校5年生で、弟達を背負ったり、手を引いたりして、煙と火の中を安全な方へと逃れ、夕方家の近く迄もどり、本家の庭で、炊出しのお握りをよばれ、兄弟皆寄り添って、時折りめらめらと燃え上る余燼を見て泣き明かした。小生の少年時代の悲しい思い出の一つである。
  
◆焦土からの復興
 祖父も父も直に復興に着手した。最初に古材を買って作業場を建て、住宅の方は柱建ての終った建物が隣村にあったので、それを買って建て、7月半頃には不充分乍ら、作業場も住宅も出来上った。又半焼の仕込蔵と原料倉庫も、火の廻った所を全部取換え、9月末頃には工事もほぼ完了した。元より資金が続く筈がなく、勧業銀行福井支店で、当時の金額で数千円の借入れをした。お得意さんの同情が大きかったのか、営業の方は更に業績が上り、大正11年には一時凌ぎに建てた店舗兼住宅を、土蔵造りの本建築に建て直し、負債も半分近くを返済する事が出来た。
 昭和3年9月8日初代芳太郎が、81才で天寿を全うせられ、村人達から惜しまれた。
  
◆現在地への移転とその当時
 初代芳太郎が本家より分家して以来、通称大保田前川に居住していたが、営業規模が拡大するにつれ、何かと不便が多く、昭和4年から現在地への移転の準備を始め、昭和9年に移転を完了した。昭和6年満州事変が発生、次第に戦域が拡がって行き、電力不足解消のため昭和16年から、市荒川の発電所工事が始まり、鹿谷地区の工事場へ味噌醤油を納入し売上高は増加したが、原料の確保が次第に困難となった。又従業員も徴用を逃れるため退職して軍需工場へ行ったり、弟が召集されて野戦へ行ったりして、戦争による苦難の時代が押し寄せて来た。ついに私にも徴用令状が来て、昭和18年12月1日に三菱航空機名古屋工場へ就職した。それから半年後、召集令状が届き、2年有余の軍隊生活が始まった。多くの戦友達を失い、筆舌に尽せぬ苦労を重ねて、復員出来たのは出征時の半数位であった。又その間空襲で焼け出された近親家族が、何軒か疎開して来られ、老いた両親初め、留守を守る家族達もたいへんであった。統制経済のため原料割当も少なく、販売量も知れた物で、味噌糀の兼業で苦境を凌ぎ、家族達初め疎開して来られた家族たちの生活を守り乍ら、私の帰るのをひたすら待って居られた父の苦労が身にしみる。復員後1年半程健康の回復を待ち、兼業に製麺業を始め、苦境から脱出を計り、昭和26年、統制が撤廃されるに及び、従業員も傭い入れて、販路の拡張と設備の改善を計り経営規模を漸次拡げ今日に至る。数年前より営業の方は息子(泰基)夫婦に任せているが、いろいろと忙しい毎日である。思えば創業以来百有余年、どうにか今日有るを得たのも、お得意様の御支援と、祖父や父達の御加護の賜と感謝しています。