ヘイヰしょうゆ
株式会社 黒田伝兵衛商店
◆創業のころ
 当黒田伝兵衛商店は、もと当家第七代松之助の世代まで、福井県丹生郡吉川村平井区(現在鯖江市平井町)に居住し田畑を有していた。これらの田畑は平井区お百姓に小作に卸してその小作料収入で生計をなしていた。この傍ら当地区産米を三国港に積出し、肥料・飼料・海産物を仕入れてこれらは付近村部落の人々に販売していた。
 ところが、明治27年9月には、豪雨に見舞われ、この豪雨はさながらバケツに汲んだ水を捨てる様な悽惨なものであった。このため当地方を縦断する福井県三河川の一つである日野川が未曽有の洪水により氾濫し付近の田畑は溢水すること3日間に及んだのである。これにより収穫は平年作の30%程度であった。
 続いて翌28年、29年と3年連続して水害を受けたこの水害により食うべき飯米にもこと欠き、なかには翌年の種籾さえ得られなかった。一方田畑の災害復旧を始め日野川堤防の改修に努めたが、お百姓達の疲労は極度に達し離農する者が続出した。ここに至って、当地における農業経営の将来に不安を抱くに至った。
 明治29年10月松之助は決意して、今立郡神明村水落区(現在鯖江市水落町4−2−18)に店舗兼居宅を新築して飼料・海産物等の販売業を始めたのである。
 時を同じくして、当神明村は歩兵第36連隊が創設されることとなり、同連隊では松之助に対し、同連隊に味噌醤油豆腐油揚げを始め、塩干物等のご用商人に指名された。
 そこで松之助は味噌醤油の製造、豆腐油揚げの仕入れ、後にはこれを製造して同連隊に納入することになった。
 これが味噌醤油製造業の創始である。時に明治30年秋頃であった。
 創業当時は連隊に納入する味噌醤油を始め、豆腐油揚げ塩干物の仕入れ、または製造で、文字どおり寝食を忘れる様な苦闘の連続であった。従業員も疲労の極に達した。このような経営であったので家業も順調に発展して来たのである。
 松之助の長男政吉は成長して家業に従事していたが、生来頭脳もよく漢学に長じていたので、仕事を終えると付近の子弟を自宅に集め、漢学を教えていた。通称寺小屋といっていた。その教え方は厳格でしかも誠実であった。今でも古老達は「黒田先生には毎日厳しく叱られましたが、よく教えてもらいました」と述懐している。
 政吉は明治33年の記録に次の通り記述している。明治二十七年八、九年卜累計ノ水害亦甚ダシキモノアリ於是乎将来愈農業ノ有望ナラザルヲ感ジ、二十九年十一月ヲ以テ茲ニ移転シ業ヲ起シ神明村水落ニ店舗ヲ開キ商業ヲ始ムトキ歩兵第三十六連隊新設セラレ地方漸ク繁華ニ至ルニ相会シ吾家カ幸運ノ啻ナラザルヲ期セリ、今ヤ家道ノ駸々トシテ盛況ニ進ムハ是偏ニ尊父黒田松之助ノ千辛万苦ヲ積ンデ移転ノ大業ニ勉励セラレタル功ニ依リバナリ。鳴呼後世吾襲家タル者先主人ノ行跡ニ鑑ミ奮テ職ヲ勉メ業ヲ励ミテ益々家道ヲ興起セラレンコトヲ希望ス」とあり家業がいよいよ繁栄していることを物語る証左である。

◆波乱の時代
 政吉は自己の訓戒を守りつつ、経営基盤の確立と発展に努めた。明治37年春頃から、日露戦争による出征兵士の歓送と、残留部隊の補充とで営門付近はこれら兵士と面会家族らで混雑し、飲食店に入り切れず当家に立寄り弁当を使って行かれた。中には弁当の副食を乞はれるに至り、いよいよ副食と酒類の提供を余儀なくされるに至った。これが酒類販売の経緯である。
 日露戦争は大勝利のうちに終了した。旅順港攻撃に参加された当連隊の凱旋と、除隊とでこれまた連隊内は勿論、営門前の飲食店での混雑で人ごみは出征の時の倍加した。これにより、当家も比較的恵まれ安定した経営を維持することが出来たのである。ところが、ここにおいても古諺に「勝って兜の緒を締めよ」とあるとおり、店の繁栄する時代には過去の経営を反省し、検討して将来の計画を立てると共にその計画を達成するべく着実に努力することが経営の指針である。にもかかわらず子弟の教育に専念した。これは政吉が漢学者であり将来は子弟が教育を身につけておく必要を感じてのことであった。子弟は成長して勉学の傍ら家業の手伝をしていたが家業が多様化しているのを合理化して、能率的に営業を継続するために味噌醤油醸造を専業とし、連隊への納入する味噌醤油を除く海産物等は他より仕入れることとした。従って酒類の販売は廃止した。この時大正3年の春頃であった。
 政吉は昭和9年6月享年61才で死亡した。当家の味噌醤油醸造業のニ代目であり当家中興の主である。
 昭和11年春政吉の長男坦(後に伝兵衛と改名)はふとした感冒に罹り助膜炎を併発し、転地療養の末昭和12年4月全快したが、再発を憂慮し、醸造業に専念できなかった。これは食料調味料を扱う味噌醤油の製造販売、衛生管理の観点からであった。
 平和な神明村にあった鯖江歩兵第36連隊にもあわただしさが訪れた。北支蘆講橋爆破事件に端を発し、北支事変が勃発したのである。このため同連隊は北支に移駐し留守部隊との交替である。
 当家の営業も活気が溢れて来たが経営の中心である伝兵衛は病弱であり過労に陥らないように配慮しながら老令の従業員を駆使して辛じて営業を継続して来たのである。
 戦争は北支事変から大東亜戦争へ発展した。国内の物資は統制され、味噌醤油を始め、その原料も配給統制となったのである。

◆終戦後の混迷
 昭和20年8月15日の終戦を契機として、国内の経済混乱は極度に深刻化したが昭和30年代に至り漸く経済は安定化に進み、昭和37年所得倍増の政府の施策は適確に進み食生活は向上した。
 他方昭和44年10月には、八代目松之助まで居住していた、もとの吉川村平井に酒類販売免許が付与された。今日では祖先松之助の遺業の賜であると感謝している。
 さきに若干述べたが第九代伝兵衛は病弱の身ではあるが、遺伝的な学究肌があり、昭和30年頃から松平忠直卿の研究に没頭した。ここに至った起因は忠直卿と神明村とは因縁浅からぬものがあった。
 菊地寛著書「忠直卿行状記」には公は暴君の代表的人物化しているが、神明地区では忠直卿が住民から親しまれ寺社に祭られている。これは神明地区の開発の功績とその善政にあることを明らかにした。
 これを昭和32年2月発刊「忠直卿と鳥羽野」続いて昭和34年3月発刊「松平忠直卿」の著書により公表した。