イノセしょうゆ
猪瀬醤油醸造元
1、「下総屋」創業まで
 創業者猪瀬和平は、栃木県との境に位置する茨城県結城市で、猪瀬利助の三男として生まれた。福井に於ては、極めて珍しい姓である「猪瀬」も、「宇都宮家配下の武将の他、信濃にも」と「日本姓氏事典」に記載されている様に、彼の地では、かなりの軒数を有するという。
 結城市は、野田、銚子に近く、和平は幼少の頃より、醤油醸造に興味を持ち、成人すると、野田醤油に職を得、醸造技術の修得に努める一方、いつかは醤油醸造家として、自立したいとの夢を持つ様になっていった。
 折しも、福井県下在住の醸造元より、技術者派遣の要請があり、和平は年来の夢を実現する好機と考え、これに応じ、見知らぬ北陸の雪国へと旅立っていった。来福した和平は、加藤コトを妻に迎え、利一、ツギ、秀二の3人の子供を得た。見知らぬ土地での生活は、決して楽なものではなかった。妻コトは、秀二が2才の時、病の床につき、帰らぬ人となった。しかし和平は、3人の子の成長を唯一の支えとし、開業へ向けて、一歩一歩着実に歩みを進めて行った。
 大正5年、和平は、福井市老松下町(現在の松本町)に、長年の夢である醤油醸造販売の店を開業した。時に和平、44才、新しく商売を始めるには決して早い出発ではなかった。屋号は、和平の出身地の総称をとり、「下総屋」と名付けた。

2、大正時代の醸造家の生活
 創業当時は幼かった3人の子の成長と共に商売も順調に拡大していった。3人の子も、店員もよく働いた。近隣の土地を少しずつ買収し、大正末期には、その経営基盤も安定し販売の拡大に努めた。
 当時の醤油業者の毎日を思えば、現在と比ベ、まさに今昔の感がある。当時の室は、竹を組み土室であり、その中央に穴を掘り、「からぎ」と呼ぶ割木を並べ、土部に灰をかけ、端から火をつけると煙も出ず、保温も十分で極めて良質の麹が得られた。又、外交は天秤棒にタコ縄で2升樽を下げ、半被を着て注文帳、矢立を懐に入れ歩いたものだった。荷車を引いての松岡方面への外交は、冬期の積雪時には、特につらいものだった。それも、金車がゴム車となり履物も草鞋から地下足袋へ、そして生ゴムの長靴へと次第に便利になっていった。自転車は当時貴重品であり、丁重に扱ったものだった。又、当時福井では珍らしい60石桶を、大勢で据えつけた事も懐しい思い出である。

3、秀二の独立
 「下総屋」も順調に発展していった。次男秀二は、少年期より独立の志を持ち、その機会を待っていた。
 昭和11年の早春、秀二は当時の「下中醤油株式会社」を譲り受け独立した。秀二、27才、猪瀬秀二醸造元の誕生であった。翌12年、堀江と志子を妻として迎える。独立しての新しい生活に気持ちは張りつめていたが、営業は思うに任せず、毎日が苦闘の連続であった。やがて、あの悪夢の様な太平洋戦争が始まり、秀二は軍需工場に徴用され、昭和17年春、1枚の赤紙により海軍に入隊する事になった。海軍特有の厳しい教練に明け暮れる毎日だった。各地を転戦し、終戦を宮古島で迎えた。昭和20年12月、復員した秀二の見たものは一面焼け野原の福井であった。幸い、下中町の工場は無傷で残っており、無事生還した喜びもつかの間、戦後の復興に、第一歩を踏み出さなければならなかった。
 「下総屋」は、空襲により焼失していた。長男利一は、戦前の電気温醸の知識を基に、坂井郡三国町で「猪瀬塩業株式会社」を設立し、醤油業は閉店の状態であった。秀二は、父和平の創業の地である松本の地に店を出し、家業を守る事を決意し、昭和22年、現在地を買い求め店舗住宅を建設した。戦後の物資不足の折、醤油は貴重品であり、営業もようやく軌道に乗りつつあった時、あの福井大震災がおこった。
 前年建設したばかりの松本の店舗も、下中町の工場も、共に全壊した。再びゼロからのやり直しであった。秀二は、災害復旧資金50万円を貸り入れ、下中町の工場、松本町の店舗を翌24年には再建した。その後の深刻な不況も乗り切り、次第に営業も軌道に乗って行った。秀二は工場と住宅が離れていた為、早朝に松本町を発ち下中町の工場に通い、店員達の出勤前に仕事の手順を整え夕刻に帰宅するという多忙な毎日を過ごした。
 昭和35年、営業の拡大と共に下中町の工場も手狭となり、新保町の現在の工場の土地を買い入れ、翌年、新工場を建設した。昭和38年の豪雪には、松本町の住宅と新保町の工場の除雪に追われ、手薄となった下中町の工場の一部が倒壊するという災害に会った。又、42年には店員の不注意により下中町の工場より出火するという思わぬ事故もあったが、大事に至らなかったのが、不幸中の幸いであった。昭和41年、松本の店舗住宅を増改築した。秀二にとって戦後の30年余りは息つく暇も無く過ぎて行った。福井地震の翌年生まれた長男幸夫も、大学卒業後、福井銀行に勤務していたが、昭和48年退職し、家業に従事する事になり今日に至る。
 今回、こうした家の歴史を書く機会を得て、拙い文章をつづってきたが、幾多の苦難を乗り切ってきた創業者達の努力と気迫を、わずかでも知り得た事を最大の収穫とし、父から子へ、子から孫へと語り継ぐ、家の歴史の重さを再確認しつつ、筆を置く事にする。