あいのきやしょうゆ
株式会社 相木屋商店
 初代斎籐億平が、安政2年11年18日、今立郡服間村相木区、斎藤奥左ヱ門より分家した。以来相木区より出でたるを以て、屋号を相木屋と称う様になったのである。
 安政2年斎藤奥左ヱ門二子銀之助が相木区より分家し現在地に、間口三間の住宅と土蔵1棟を、代価130円位で買求め店をもつ。商品は鰊、下駄、ちり紙、砂糖等を販売し、売子を1名やとっている。相木区の庄屋を務めていた奥左ヱ門が鯖江に出て来て、鯖江藩主間部公に出願し、今立郡の肥料販売する許可を得て、自から経営の任に当り営業する様になった。
 此の間、10ヶ年を過ぎ、相当な財産が出来た様で、3ヶ年をかけて木家七間に七間、土蔵2棟を新築する。此の住宅を新築するに当り、矢部六右ヱ門氏の建物、土地を買受け、又当時矢部氏は醤油を営みたる故、其の製造器具及権利等も引き受け営業の一種に加える様になった。これが醤油製造の始業である。この当時の製造は徴にして年間ニ・三十石を販売した様でこれを期に名を「億平」と改めた。
 奥左ヱ門改名初代億平は次男銀之助を本家に戻し、次女おすみに、服間村波垣の市橋甚之助氏三男幼名貞蔵を養子として迎え、改名し新三郎と称す、後のニ代目億平である。次に服間村寺地の相馬権右ヱ門氏より酒造業を引き受けて、副業とする。其の酒は服間村寺地で製造し鯖江迄運搬して販売していたが、費用がかさむと云う事で隣家の、森徳蔵氏の住宅と土地、質兼氏の住宅と土地を買受け酒醸造場とした。
 其の時、酒百二、三十石を製造した由。又明治28年頃には酒の販売益々盛んになり、醸造場の不足を来たし、四間に八間の酒蔵を増築し酒二百二十石位を製造した様でこの時代が酒の販売最盛期であった。酒社は寺地に於て、使用した者を鯖江に移転する。其の時、酒、醤油、肥料、食品、鰊、加賀の高松素麺及昆布、塩等を販売していた。
 天保3年生れの初代億平は、明治27年8月5日死亡、63才、又明治37年1月8日ニ代目億平死亡51才であった。ニ代目は養子に来たりて、25年間毎朝4時より、遅く起床したる事なし、商売に熱心で、正直者で信用厚く、家庭では妻子を愛し、貸家2軒、土蔵3棟を新築非常に財を残した由で、又町内区長、町会議員、酒造組合役員、鯖江精米所合資会社社長、塩販売合資会社社長等をした。
 明治41、2年頃迄は二兎を追うものなんとやら、醤油には力を入れず、酒販売にカをそそいだ様だ。醤油製造に於てこの当時、諸味八、九十石位で蔵の中に容器二十石入、三本、十石入七本、八石入ニ本、計十二本有り、搾り舟一ケ、釜場一ケ、ニ番用桶三本で製造していた。
 明治44年頃になって、酒の販売競争が激しく、製品が越年する様になり、重税にも堪えかねて、酒造業を廃業した。
 3代目億平は幼名藤太郎25才で相続する。藤太郎は18才で結婚商業に就く。大正5、6年頃迄醤油販売に力をそそぐ。経済的に酒販廃業の傷もなおり落ち着いた様で、この頃から昭和の初め頃迄、米の売買を行いある程度の利益を得た。此の間、娘の貞子が大正14年4月から4ヶ年金沢第一女学へ入学させる。其の間の費用約1080円也と記してある。この娘貞子に昭和2年8月、北中山村磯部、山本佐仲、次男隆治郎、明治37年3月生、を婿として迎えた。四代目億平である。三代目億平は、昭和5年迄に、町会議員3回当選し、郡会議員(現県会議員)又昭和2年より新庄製紙会社の専務取締役を務めた。
 以上が三代目億平が記録帖より要約したものである。
 昭和5年に筆者、五代目が生れた。此の頃には、商売は今迄務めた番頭に、暖簾分けをし醤油、味噌の製造販売だけとなる。そして醤油は年間三百石位の販売であった様だ。
 昭和13年8月5日3代目億平死亡60才であった。其の内に第二次世界大戦に入って統制時代に入り、売上げも原料の入荷難から激減する。戦後を迎え統制時代が4、5年続く。
 此の頃四代目億平は鯖江食料品組合の理事長となり、北海道迄渡り、食料品を買い集め鯖江町民のために送ったのである。町議も2期務めた。
 昭和25年頃から五代目直が就業する。男子店員2人を雇い失ったお得意を廻る内徐々に売上げも増えて行く。昭和27年頃税務対策上会社組織とする。四代目が代表取締役筆者が専務取締役となる。昭和31年都市計画で前の県道の幅が五米位から十五米に拡張される為、蔵を全部取こわし新築・住宅は移動させた。総工費450万円程であった。そして男子従業員5名女子店員1名と共に販売石数は戦前の最盛期の倍以上の六百石を越えた。
 昭和33年4月に筆者は結婚し、1男2女を得る。
 昭和42年3月31日、四代目億平死亡、63才である。身体も堅固で80才位まで生きられると自他共に認めていただけに残念であった。
 昭和46年11月北陸醤油生揚協業組合を県内13業者にて設立、フク醤油工場内に於て工場を建設、上質均等なる醤油生揚の供給を得る。
 昭和47年から、2年がけで自宅を改築する。初代億平が3年がかりで建てた格子造りの家を取りこわすのは他の人まで残念がられたが、思いきって延85坪鉄筋2階の住宅を建てた。建築中にパニックがおこり建坪単価が倍に上がった。しかし契約通りの価格で無事完成した。以後現在まで醤油業界としては多難な時代が進行中である。
 安政2年今立郡の山奥より出でて壱百弐拾余年間口十四間奥行二十数間、三百数拾坪の土地を確保し色々な商売の中で醤油製造だけが残った事を想う時、考えさせられるのである。