やまびこみそ
湯本味噌株式会社
◆郷土の自然ー創業
 岐阜県境に聳え立つ冠山。大野市と境をなす部子山。周囲を山で囲まれた風光明媚な町、そこに当やまびこ味噌醸造所があります。
 味噌を生業といたしまして一昔にも満たない当店にとりましては、とりたてて歴史と申せるような軌跡はありませんが、敢て言えば、この恵まれた自然環境こそが、我が醸造所の生みの親であり、伝統であり、この自然なくして現在の味噌屋稼業など、とうていありえないと言えるのです。厳しい自然の中に生きる人々の素朴で、質実剛健な生きざま、長い冬、深い雪を耐え抜いて来た生活の知恵、それらすべてが、足羽川の源となる泉のように、当店の製造する味噌の中に伝統の味となって流れているのです。
 国の重要無形民俗文化財として指定を受けた田楽能舞は、その最もあざやかな象徴であります。700年前と記されていますが、廻国の折、雪のために滞在を余儀なくされた北條時頼を、村人達が、田楽を舞って慰め、時頼はそれに応えて能を教えた。そう伝えられる田楽能舞は、毎年2月15日になると、雪に埋もれた拝殿で、古式ゆかしく奉納されているのです。
 しかしこのような歴史と伝統をもつ池田の里も、祖父の壮年期は交通の便も悪く、殆んどの家が、かやぶき屋根のみすぼらしいもので、男達は、炭焼き仕事にて生計をたてていたようです。そのようななかで、病弱だった祖父は山仕事を嫌って、麹作りを学び製造しはじめたのです。そしてそれが我が家の醸造の始まりと言えるでしょう。明治35年頃の事です。しかし当時、味噌醤油は、ほとんど自家醸造されておりまして、現在のように完成品としての味噌を売って商売するのではなく、原料の麹を売っておりました。人々は当店から買求めた麹に河原の石で作ったかまどで夜遅くまで煮沸した大豆と塩を混ぜ合せ、土間の隅に置き、3斗桶で2年以上熟成させてからフタをとって小出しして使用していました。
 その頃の味噌醸造法として伝えられている仕込基準は、大豆1斗に対して麹7升、塩6升の割合ですが、大豆1斗に、麹1斗塩1斗が配合された「三ッ山」と呼ばれる辛口の3年味噌もあったそうです。激しい山仕事に疲れた男達は、塩分の多い味噌汁に舌鼓を打ったのでしょう。
 こうした麹を販売する家は麹屋、又は、室屋と呼ばれ池田町に7軒ありましたが、それぞれが「おひつ」と呼ばれる細長い木箱に、麹を2斗あまり入れて、いくつかの部落をまわって売って歩いていたのです。しかもその殆どは、米との交換でした。先代は「背中に米を担ぎ、胸で雪を押し開けながら、一里の道のりを半日がかりで家へたどりついた。」などと苦労話をして聞かせてくれたものです。まことに戦国武将のような豪快な生きざまを彷彿とさせるような気がします。
 「谷川の清水をいかした風味豪快な味噌」と言う宣伝文句は当店製造の味噌がこの生きざまを受け継いでいるところに由来しているのです。

◆ニ代目から現代へ
 ニ代目父の時代は、暗雲たれこめる不穏なファシズムの時代でありました。戦地へ出征した弟と長男は、満洲事変やひきつづく第二次大戦で戦場の露となって消え果て、また家においては大勢の子供をかかえて、悪戦苦闘の毎日であったようです。
 父は、大変に一徹な正直者でありましたが、時代が時代であっただけに、商売の上で飛躍的な伸びを期待することはできず、創業者の教えを忠実に守って、ほそぼそと麹づくりを営んでいたようです。
 私が幼少の頃の毎年の仕事は、7月になると醤油の種麹や二番仕込の麹の販売、12月になると味噌用麹の販売であったようです。狭い窮屈な土室の中で、炭火をおこし、ろうそくを灯しての仕事は、大変だったようで、室の小さな扉を開けて出てくると、いつも疲れたような顔をして、汗まみれになっていたことが思い出されます。
 しかし、このような貧しいながらも、のんびりした生活も、血なまぐさい風が大陸から吹きはじめ、なにもかもが戦争へ突き進んでゆくにつれ、崩れていったのです。
 私が人生を考え将来をおもいはじめたのは、このような大変な時代でありました。我が家においては、長男を兵隊にとられて生活苦がのしかかり、国家においては、内憂外患こもごも至るという厭な時代であったのです。
 向学心に燃え血気盛んな青年であった私は、親の反対するのを押しきって、北陸中学校へ進学しましたが、戦争による食糧難は大食漢の私にとっては、親元を離れた生活ゆえに閉口きわまりないものでした。
 戦争は当然のことながら、我が家にも大打撃を与え、多くのものを奪い去りました。終戦の翌年には、ビルマに出征した兄の戦死の公報が伝えられ、そして、長男の死に落胆した母は、持病の喘息がこうじて51才の若さで死去したのです。2人の働き手をなくした我が家で、中学を卒業したばかりの私は、父とともに麹の製造販売を続けましたが、それだけではとても生活ができず、20代、30代の人生の大半を転職につぐ転職のうちに、使い果してしまったのです。
 育雛場の経営、菜種を収集しての搾油業、養蚕の盛んな土地柄を利用しての蚕業技術指導員となって農協職員に、全く考える暇がない生活の連続でした。
 50才代で妻に先立たれた父も、あまり報われることなく、昭和37年秋、死去いたしました。
 しかし、受けついできた麹の製造だけは休む事なく続けてまいりました。今にしてみると、それが現在の味噌醸造の基盤となっているようです。
 味噌を商品として市場に出すまでには、数々の失敗と、苦労、坐折と試行錯誤の繰り返しでありましたが、数年前から延坪60坪の味噌作業場を建て、ようやく味噌醸造としての形も整いつつあり、又、組合員の皆さんの暖かい御理解のもと、組合への加入もさせて頂き、御指導、御鞭韃のもと新参者ではありますが地道な努力を重ねて邁進するつもりであります。
 それにしても大きな病気も事故もなく、ここまで来れたということが、なんといっても幸運でありました。「この道以外に、生きる道なし。」今はそう思って味噌造りに励んでいます。
 現在「歯車になることが厭だ。」などと言って就職を拒否しておりました長男とともに、仕事をしておりますが、どうなりますことやら−。「食えなくなったら、またなんとかするさ。」と高等遊民のようなことを言っている長男に、いつも言い聞かせることがあります。
 「金もうけより品質が第一だ。人に頭を下げるのではない。自分の作った味噌に、頭を下げるのだ。」と
 この心情を大切にして「おいしい」と言ってくださる方が一人でもいる限り、味噌作りを続けていってくれたらと願っているのであります。