マタイチしょうゆ
マタイチ醤油醸造場
◆祖先の移住
 当家の祖先は南条郡宅良村の杉谷と言う部落から越前武生の現在地に移住してきた。その屋敷跡が道蓮屋敷と言って現存している。過去帖を調べると、宝暦年間に当地に住みついて現在の正治まで十二代に至る。当時の家屋は土蔵造りで、南条郡杣山村阿久和(現在南条町)の杣山城の城主爪生保の兵糧蔵を取って来て建てたものである。

◆創業時代
 醤油業を始めたのは、慶応元年頃で、諸味を搾る搾木に慶応元年と示されてあったのを確認している。
 さて初代の源七は本業がカセ屋で武生一円から遠く江州(滋賀県)まで取引があり、かたわら農業を営んでいた。当時は庄屋又助と言い上市村の戸長をしていた。2男1女が有り、長男は石太郎、次男吉造、長女は「くみ」で、長女は川崎市左ヱ門(京町武生桜町)に嫁いだ。源七は仏縁が深く、そのため次男を寺へ出した。この人が誠に立派な人柄で後日義良と名のり京都山科毘沙門堂門跡となる。お弟子に現在杉谷義周(上野寛永寺の住職)故三崎良泉(妙法院門跡)等他に知名の名僧を育成した。
 明治初年頃、業の大不況な時があり、この時近親家族一同にて夜も眠れぬ位、心労の結果醤油業に転向、樽、とっくり等の容器を丹波方面より買入れると共に、仕込桶も序々に増やして、50本近くとなり、明治18年11月20日醤油製造営業免許鑑札が交付され、本格的に醤油醸造業になったのはこの頃である。その免許鑑札は次に示した通りである。
 当家は代々又助を名のり源七もまた、又助を襲名した。40才の頃長男ニ代目の石太郎に世帯を譲り、商売も漸く順調に運び仕込桶も60本を数えた。現在の家屋はこの人が建築し、昭和11年5月完成総工費は壱万円が少し残ったと聞いている。大変勤勉実直な人で、この人の詳細で明確な筆のあとが数多く残っている。外交にはあまり出なかったそうで倉仕事に専念し、倉男の指導に当っていた。大正初年頃西の工場(三間に十間)が完成し、現在の工場よりも大きな工場であった。この頃税務署員が月に2回位検査に来て諸味の寸法、醤油の在庫等を調べに来た。その頃には、コンプレッサーにて各桶の攪拌をし、味噌すり機械、諸味圧搾ジャッキ等一応の設備も整えられていた。また当時南条、今立、丹生、三郡の醸造業者にて三郡醤油味噌工業組合があり、永年組合長を勤めた。
 この頃、従業員が10名女中、子守等で20名近くの人数で1俵の米が3日位しか無かったそうである。この石太郎が醤油醸造業の中興開山であり、一歩一歩地道に営みを進展していったのである。区長、方面委員等をし、社会事業にも大変貢献しまた信仰も人並はづれて厚く三代目又市に引継いでからは、専ら社会事業に専念した。石太郎には4男2女があり長男又市は中学校を中退し、東京の醸造試験所に入所、終了後は醸造に販売に非常に努力をした。又市が24才の時、南条郡南日野村上平吹、佐治与次平の長男文吾の長女ヒナエ(武生実践女学校卒業)と結婚し、自分の名前マタイチを取り入れて登録商標とした。

◆激動の時
 当時小泉留吉と言う番頭の他に9名の使用人が、それぞれ業務を分担して身を粉にして働いた。その労力は大変なものであった。こうして確たる地盤が出来上って行ったのである妻のヒナエはこの大世帯の炊事等に加えて長女初枝、長男正治が生まれ、宅良、今庄方面配達の時などは朝の3時頃からたたき起され、また子供の養育に疲れた体の休む間がない位に立ち働いた。この頃から日米と支那との関係が次第に悪化し遂に支那事変が勃発し三男で叔父の金作も昭和12年9月14日応召、鯖江36連隊に入営した。こうして1人又1人と応召され商売も思う様にゆかなくなっていった。昭和14年に無事金作が凱旋し、又武生一円の御用聞きに近在等にも出かけて行った。この頃には次男、三男、次女、四男と6人の子供が成長し、長女は嫁ぎ長男の正治は中学を卒業し家業に次男以下それぞれ学校に進学していった。こうした時に大東亜戦争が起り、次第に戦いも激烈になり、商売の方も原材料が欠乏し次第に統制の傾向が強まり主原料の確保に苦労する様になった。昭和16年1月武生醤油共同販売の製造所が発足し、我々の工場の諸味、機械等の一切を提供し、個人販売が全々出来なくなったのである。こうして商売も思うようにゆかず、長男の正治が昭和17年3月組合に奉職した。
 昭和18年1月19日正治に白紙の令状が来て、大阪陸軍造兵廠に奉職した。ついで叔父の喜美治も1月29日に応召、正治が造兵廠に奉職中召集が来て、中部80部隊迫撃兵として入営、3ヶ月にて召集解除、また帰廠この間白浜船舶製造所に転属、途中帰郷して現在の妻美代子と結婚、再度応召終戦の20年9月28日帰宅、その間叔父の喜美治は戦死し、自分は家事のかたわら共同製造所の手伝い等し、昭和21年3月武生町役場へ勤務、昭和26年漸く個人醸造販売を再会し少しづつ元の状態に戻っていた。
 妻の美代子も1男2女が生まれ、子供の養育にまた、男の手が少いため自転車に樽や、とっくりをつけて遠くの村部まで配達に行く等苦労の連続であった。
 正治が市役所を退職したのが昭和32年、直に自動車学校に入り免許を取ると同時に現在の店員山本晋三と共に自動車で村部の元の得意先や新たな得意先の拡張に専念し、序々に元の状態に戻っていった。思えば10年間のブランクが我家にとって一番辛い時期であったと言える。次第に子供も成長し、その間北陸醤油生揚協業組合が創設され、組合員の仲間に入れていただき、醤油の販売面に於て大きなプラスとなり心から感謝致している現在である。
 長男も農大を卒業し、5年余りの貴重な経験を積み、現在家業に専念している。
 今後も我々業界の苦難の道を乗り越えて行かねばならぬと思うが、固い信念と誇りを以て、我が商売に精励していきたい。最後にこれ等杉谷家の基礎を築いて戴いた祖先の御恩を忘れてはならないと心から思う次第である。