マルマツしょうゆ
永崎醤油醸造場
◆流転
 創業者、松右ヱ門は、幼名を松太郎と言い、明治12年、永崎家の長男として生れた。丹生郡大虫村弘道小学校に入学した頃より、先代の事業の放慢経営の為め、借財に苦しみ、小学校を途中で退学するの止むなきに至った。
 親と共に宮大工として、少年、青年時代を過ごし、近くの寺、神社の建立にいそしんだが、遂に明治36年、倒産負債の整理をした。
 明治37年、日露戦争が始まると、直ちに召集を受け金沢九師団に入隊、満洲奉天方面の作戦に参加した。無事39年春除隊した。除隊後、一切を無にし丸裸になった松太郎にとって普通の働きでは以前の姿に復活することは、並大低ではないと思った。
 どうしてでも建直るには事業しかないと思い、明治40年同村の西にそびえる鬼ヶ岳(553米)の山麓一帯に層の連らなる石灰岩に着眼して、石灰製造業を始めた。
 明治44年、同村日蓮宗成福寺の本堂の建立を最後に、六代続いた大工職を廃業し、石灰製造業に専念した。松太郎33才の時であり、35才には松右ヱ門を襲名した。爾来、石灰業は軌道にのり、村の男達は殆ど石灰山の仕事に従事、村の産業として大いに賑い脚光を浴びた。
 販路は年毎に増え、生産も追いつかなくなり、明治45年〜大正8年にかけて敦賀郡刀根村に分工場を設立し、丹南一帯の農家の肥料として、その需要に応じて来た。
 77才で没する迄、村の男達から親方と呼ばれて親しまれ、村の良き指導者として、相談役として、あらゆる役職についた。
 石灰の需要は、田植後中耕用肥料として出荷され、時期的に4月〜6月迄は大変忙しいが、需要期以外は、比較的のんびりしていた。作業はすべて分業化され、歩合制で運営され、賢実な歩みをつづけていた。
 而し事業欲に燃える若い松右ヱ門にとって、是だけでは満足ではなかった。

◆醤油業の始まり
 年間を通じ、自宅で年中出来る営業を物色、家族労働も順次増える傾向でもあり、刀根工場を大阪の商人に売却した金を資金に、醤油醸造業を始める事を決意した。
 野田の佐々木惣兵衛さんの親切なる実施指導を受け、現在地に工場を新築して製造を開始し、商標を松右ヱ門の頭文字を採って「マルマツ」と付けた。その日は、大正9年10月1日である。
 近郷に石灰で信用を得たのを手掛りに、醤油の売上げも順次伸びていった。
 以来、石灰、醤油と多忙を極めたが、年々順調に両者共運営され、昭和8年待望の家屋も新築して翌年新居に移った。

◆嵐が吹いて
 其の間、創業者は隣家の高橋与八郎の長女サキを妻に迎え、家庭は平和がつづいたが、妻サキは四男幹雄を産むと、産後の肥立ちが悪く、4男1女を残して、薬石効なく、37才の若さで遂に帰らぬ身となった。
 永崎家にとって開業以来の嵐がひしひしと吹きよせて来た。翌年長男松哉が近衛四聯隊に入隊、製造販売を一任していた番頭の高橋正、妻サキの弟も日支事変始まると応召、33才で死亡、2人の従業員も赤紙入隊、石灰山の若者達も次々に召集され、70名いた山男達も約3分の1になり、残りは年老いた人達だけになった。其の上燃料の、コークス、無煙炭も順次品不足で遂には、カロリーの低い亜炭の様な石炭が配給となり、山の火もいつしか消えて、往時のおもかげはなく、遂に昭和20年度には閉山せざるを得なくなった。
 醤油の方も召集、入隊、と人手不足になり、次男彰が大阪より緊急帰郷し急場を手伝い大いに助ったが、昭和13年秋敦賀部隊に入隊、三男秋也が後を引受けたが、又軍隊に入隊、南方に四男幹雄も甲種予科練にひきつづき入隊、統制もしかれ人手も無く、止むなく昭和17年5月に武生醤油共同製造所に合併せざるをえなくなった。
 以後創業者松右ヱ門は終戦迄、1人の生活が始まった。
 やがて終戦となり、長男松哉は戦時中、特高憲兵の為に公職追放を受けて、止むなく東京に居住することとなり、次男は南方より復員、元の大阪へ戻り、四男幹雄は予科練より復員して我が家に帰ったが、軍隊時代の無理がたたって発病「若くして、吾が為めに死する母、浄土で招く、吾も行きたし」の一句を残して24才で死んだ。

◆醤油業の復活
 三男秋也は昭和21年3月、南方より復員して家路に帰った時は、元の醤油工場、土蔵は敦賀部隊の糧末倉庫になっていた。
 翌年、北日野村平林、清水家の長女フサ子と結婚し、3人の男の子を育てながら、いつしか統制がはづれて自家営業出来る日を、農業を営みながら1日千秋の想いで待っていた。統制が撤廃され、26年、時機到来、武生共同製造所を1人脱退して、現在地に工場を増築して製造を開始した。
 約10年間の休業であり、糧末倉庫に提供した為めに、工場はカラッポ、桶、器具等は全部買求めての復興は並大低ではなかった。3人の子供をかかえて血の惨む苦闘が始まった。
 醤油業もどうにか戦前の製産石数に戻り、25年には長男松哉の公職追放も解除され、陽を見る事が出来、東京で石油業を始めたのを見とどけて、創業者松右ヱ門は、
 「他界する、名残り惜しまぬ、歳の春」の辞世の句を、残して、30年2月4日、77才で没した。
 現在三代目邦夫は、昨年秋、妻君恵と結婚して、日夜醤油の製造、販売にはげんでいる。
 代々続いた宮大工を、創業者は33才で廃業し石灰業に転業、併せて始めた醤油業が今日唯一つの永崎家の仕事となった。農村地帯の私の部落にとっては誠に当を得た商売で、年中平均しての営業でもあり、生活必需品で好不景気なく、創業者は将来を見込んで子孫の為に良き商売を選択して頂いたと感謝し、創業者の気持を汲んで、今後益々此の道に生きる様決意を新たにするものであります。