マルカワみそ
マルカワみそ株式会社
◆家の沿革
 当家は、江戸時代の中頃(安永2年)今から280年前に当地の大地主、河崎仁左ヱ門(現存)の次男が、不動産(高)20石の分与を受けて、現在地に新宅して創立した。従って、現在に至るも近所の人々の呼び名は、通称新宅さんである。
 江戸時代には、代々庄屋を勤め、部落の頭分に位置した農家であり、宇右衛門の家名は代々襲名して現在に至り、当主は、八代目である。

◆営業開始
 六代目宇右ヱ門は、進取の気性の旺盛な人であった。或は樹苗を栽り、或は特用作物を栽培し、或は家畜を飼育する等各方面に、多角経営を試みた。長男(七代目)が高等小学校を卒業の頃、近在の国高村村国の矢敷孫兵衛氏が、家業の味噌麹醸造業を廃業した為、その暖簾を譲り受け父子カを合せて、味噌麹醸造業の第一歩を踏み出したのである。
 時に大正3年12月であった。3石入りの仕込桶は当時購入したと思われるが底板に、国高村村国 赤見桶屋製 代金30円也と記入されている。これが第1号の記念すべき桶であり、現在も大切に保存してある。
 創業当時は自家醸造用味噌麹の販売が大きな比重を占めていたが、規模としては小さく、年間40石程度の売上げがあった事が記録として残って居る。尚又、自作地一町七反歩を耕作する兼業農家の形で事業を進めて来た。

◆営業の歩み
 七代目宇右ヱ門は誠実な努力家であったので、営業成績は順風満帆の伸展の一途を辿った。然し昭和に入り戦雲愈々濃厚となり、戦争の拡大につれて、あらゆる企業の小規模経営の処は合同して事業を行い、色々の無駄を排除せよとの政府の施策に依り、企業整備会が発令された。又当時は全物資の欠乏に依り、原料製品共に厳しい統制が実施された。
 味噌醸造業者は、原料は過去の実績に応じて配給され、製品は出荷命令に依り出荷する訳である。当家は政府の方針に従い、小規模経営の人達相集って出資して、福井市豊島町に福井味噌工業株式会社を設立して、個々の実績を提供して、原料の配給を受け、合同に依る営業を開始した。頃は17年である。事業も漸く軌道に乗りかけた処、戦況の苛烈さの進むにつれて原料の配給も少くなり、加えて昭和20年7月9日米軍機B29の福井空襲に依り、壊滅的な打撃を受けた。8月15日終戦となり、戦後逸早く月見町に、焼け残りの古ぼけた工場を借り受けて営業を開始したが、23年6月28日の福井大地震に揺さぶられ、再起不能の状況となり、遂に福井味噌工業株式会社は消滅したのである。比間資金の需要に追われ、度重なる増資をし、其の都度これに応じたが遺憾乍ら配当は1回も貰った事が無かった。只設立資金、設備資金と、資金を提供する株主であったとの印象は拭う事が出来ない。福井県醤油味噌組合は昭和16年10月には統制会社と名前を改めて、原料製品を統制したが、当方は家で造る訳でなく昭和25年組合員としての資格無しとして、出資金は返還され組合を除名された。この金は僅6,000円と記憶している。この組合とは関係が無くなった為に、其の後に起きた組合の大巾赤字解消問題は対岸の火災視して居られたのである。この食糧難の時代の間当方は、先祖伝来の農業と自家醸造用の味噌麹の委託加工を業として過ごし、年間160石程度の賃加工をした記録がある。
 昭和25年に味噌の統制が撤廃されると同時に、味噌の醸造を開始した。
 酒造家の古桶を譲って貰う等して仕込数を増加し、業績も徐々に伸展した。昭和33年には福井の米五さん(先代)の親切なお奨めで福井県味噌工業協同組合に加入させて貰い、今日に至って居る。
 昭和34年には鉄筋コンクリートブロック建の倉庫1棟を新設し、同48年には従前より使用して居た木造の倉庫を取り毀し、鉄筋コンクリート造2階建の工場1棟を工費2千余万円を投じて新設した。
 時恰も石川県の業界では合同機運が高まり、不要になったNK缶や、自動製麹装置等、其の他の機器が割安にて入手出来たのは、幸甚であった。
 創業当時は、味噌と麹の小売を主としたが、昭和10年頃より卸売を始め、戦後再開後は卸売を主とし、現在は出荷額の90%以上が卸売である(年間出荷量約100屯)

◆先代の功績
 ここで七代目宇右ヱ門の足跡を省みると、高等小学校を卒業後父(六代目)と協力し、老舗の暖簾を受継いだとは言えこの事業を起し、営々築き上げた努力は、並々ならぬ苦労があったと想像される。配達の荷造りに使用して擂切れかかった麻縄は今も大切に保存されているが、家宝として永く子孫に残し度いと思う。又努力家であった為兵役関係にも特筆すべきものがある。鯖江歩兵36連隊に甲種合格兵として入営し、シベリア出兵に従軍し、陸軍歩兵伍長で現役を除隊し在郷中青年学校教練主任指導員として15年勤めた。
 その間、後備役入隊し、軍曹に昇進し連隊随一の成績で除隊し、在郷軍人分会長等を務めた。戦後マッカーサー指令に依る公職追放令にかかりしも、同会解除後は、福井県麹工業組合理事、南越麹組合理事長等数多くの公職を勤めた。
 その間、6人の子供を養育し、昭和11年には住宅を新築する等、家運に寄与せし事も数多い。又、書を学び部落切っての能筆家であった。謡曲も嗜み、田舎師匠として名が高く教えを受けた人も多数現在生存して居る。
 この様に我が家の営業歴史は60余年になるが、ある時は栄え、ある時はその生産が零となる等、波多い半世紀であるが、九代目の息子も家業に就き、親子一体となり、父祖の恩に感謝し乍ら、誠実に事業を進めて行きたいと思う。