たましょうゆ
株式会社 山さきや
◆創業由来
 藤原鎌足十代の裔、為憲が伊豆の伊東にて伊東姓を名乗り後世、日向に移り、1695年有馬清純と共に丸岡藩に来り福井の豪商山田屋に奉公、辛苦の後、享保2年、柳町通りに店を建て、味噌醤油業を創めた。山田屋は当時より、紙山田と呼ばれ、奉書を武家に納める北陸一の豪商で、昭和初期まで呉服町通りで名を馳せていたが、此の店から、独立した者に山崎屋の屋号を与え、取扱商品は他の店と競合しない物を定め、チェーン組織化していたので、どの店も繁栄して、近年まで、福井市内に5店程残っていたが、紛らわしいので、夫々店名を変え、当店は、「山さきや」と書くことにした。
 初代山崎屋宇平は、山宇と称し、福井城の通用口の柳門から城内の武家に高品質の醤油を納入していたので、鴨狩の帰路の藩主に、火入の香りの良さを認められ、玉醤油と名付けられたので、欅の厚板に墨書し軒に吊して使用、後世永く伝えられ角が丸くなって、文字丈が浮き上って残っていたが、昭和23年の震災で焼失したのは残念でした。
 ニ代、三代と着実に家業を繁栄させ、四代目は町名主となり、享和元年伊東卯兵衛を名乗り、1864年、五代目は、17才で卯兵衛を襲名、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治17年までの日本の政治の激動期を45年間、能く耐えて家業を維持、六代に家督を譲り8年後歿した。
 六代目幾久次郎は、文久元年隣家に生れ伊東家に入り、19才で結婚、25才で相続したが、生来進取の気風鋭く、博識で卓見を有し、営業も大いに業績を上げ、政財界に尽カ、欧州にも旅して見開を広めた。
 下図は、明治20年発行の福井商工便覧(福井の豪商50店を紹介)の一葉です。

◆受難と復興の繰返し
 明治35年3月橋北3,300戸全焼の大火は、復興が遅々として進まず、市民は5年以上も仮小屋住いで、悪疫も流行し、長男広祐は福井中学5年で病歿、次男祐司も病気中退し不遇の時代であった。
 日露戦役の大勝利で国内の景気も立直り復興も漸く目途がつき、明治も終り、第一次世界大戦は、日本の経済界を沸き立たせたが、大正9年からの経済恐慌は、醤油業にも大きく響き、合併や、転廃業も続出したが、幾久次郎は祐司と共に、多角経営を図り、各種事業に手を出し、何とか不況を凌ぎ、売りに出ていた土地建物を買取り、貸家にして、将来の安定収入源とした。
 若狭方面にも営業を拡大したが、嶺南には産業も少く、出稼ぎ先を探している者が多かったので、折しもカナダ横断鉄道建設の労務者を募集していたので、之を斡旋、ブラジル移民の世話をした記録文書も保存されていたが戦災で焼失してしまった。
 大正11年の関東大震災を機に、工場の近代化を行い、ボイラー及び加圧蒸缶の導入に始り、鉄筋コンクリート仕込タンク、栂野式麹室に依る自動手入装置、空気攪拌の実施、更に脱脂大豆使用に依るコストダウンで設備費を償却、経営を安定させた。
 営業を七代目祐司に委せた幾久次郎は、福井市内の同業者に呼びかけ、毎月18日寒松園に集い、業界の融和と技術の向上を図り、福井味噌醤油工業組合を結成、国島清平氏等と福井県連合会設立に尽力した。
 幾久次郎は書を能くしたので、菊城と号し、文人墨客との交際も繁く、数多くの名士の書簡や書が保存されていたが、昔から蒐集された書画骨董や古銭等と共に戦災で焼失した。尚六代目の幾久次郎は、風雲急を告げる昭和13年78才で歿した。
 七代目祐司は、技術に熱心で、品質本位の販売で業績を上げていたが、麹室の保温用の火鉢の過熱で、工場を全焼したのを機に、狭い敷地を有効利用する為、4階建の工場を新築し1階を原料倉庫と、小麦処理場とし、4階まで大豆を捲上クレーンで揚げ3階に設置した加圧蒸缶に落し、3階床面で種麹を混合、2階の栂野式棚型製麹室の天窓から盛込を行い、12本のコンクリート槽に仕込み、空気攪拌機の使用で、極度の省力化を図った上に、販売に重点を置き、綿密な一覧式顧客リストを考案、2000軒の小売客を保持、自身も常に新規顧客開拓に歩き、福井市内の如何なる細路も熟知していた。
 その後戦時統制下の営業、昭和20年7月の大空襲で、工場も住宅も、全部失ったが、再度3階建の工場を再建し、いざ操業と言うとき、昭和23年6月福井地震で、又もや全焼と、都市計画で敷地も減歩されたが、残った土地の一部を切売して、古材を求め工場の再建を行った。そして統制法で製造のみ行い、配給所へ持って行く丈しか許されなかったが、26年統制解除後は、卸売に転じ、小型四輪で県内各地を馳け回り販売店を開拓したが、昭和30年暮に急逝した。
 八代目を受け継いだ俊廣は、昭和20年福井工専電気科を卒業、米軍福井軍政部に勤務後、昭和25年から家業を手伝い乍ら、醸造技術の習得に努め、品質の向上を図り、いち早く工場の近代化を行い、各種自動機械を設置、極度の省力化を完成したが、更に将来を展望し、協業化の必要性を痛感した。
 昭和45年、県内12社の御賛同を得、フク醤油株式会社の御好意で、同社内の土地建物及び機械設備を借用し、又最新式の原料処理並に製麹工場を建設、『北陸醤油生揚協業組合』を設立、生揚の供給を開始した。之に併い、山さきやも株式会社に組職替して、下掲の写真の如く東明里に、明里工場を建設、
生揚貯蔵用低温倉庫 
五千立琺瑯タンク及びFRPタンク20本
 全自動ボイラー
 プレートヒーター
 全自動びん洗機、等々衛生的な機器を備えたので、販売数量も増加した。
 旧店舗跡地は鉄筋コンクリート5階建千平方米20室の貸ビルを建設。初代宇平の定めた店舗の地を二百六拾余年後の、今日も維持出来た幸運を代々の先祖に深く感謝している次第です。