ヒゲコしょうゆ・みそ
古村醤油
◆古村家の起りと創業
 初代次右ヱ門の父は、加賀藩上級武士であり、母はその屋敷の奥女中であったと伝えられている。身ごもると金沢の郊外、古府という村に下り、男子ならば3才に成長のおり、屋敷に上るようとのお墨付を受ける。天保7年出生。3才にして金沢味噌蔵町の屋敷に上り、大小二振りの刀と裃を与えられた。再び古府にもどり成長する。土地の名、古府から姓を古村と名乗ったらしい。
 次右ヱ門は中屋弥兵衛次女、里んと結婚。古府より加賀大野に移る。知人の醤油醸造業、由水平次郎氏の指導をうけ、醤油醸造をはじめる。創業の日時は、江戸末期か明治初期と思われるが、定かな記録はない。
 次右ヱ門は明治17年隠居し、家業を長男、喜太郎に譲る。
 明治19年8月29日死亡。
 ニ代目喜太郎は、安政6年7月26日出生。明治15年平間庄七の長女、はつと結婚した。研究心の旺盛な人らしく、早くからアミノ酸を試作したり、特に製麹には熱心で、北海道までも講師として招かれていた。

◆福井での創業
 三代目次作は明治19年2月7日、喜太郎の長男として生れる。家業の手伝いをするが、期することあって自分のカを試すべく、親しい友人がおり、醤油業として将来性のある福井へ赴き独立する決心をした。
 明治41年福井市氷川町(現在地)の土地建物を保証金50円、600円(10年々賦)で買い入れた。親の力を借りず初代目もお世話になった由水氏より諸味を借り受け、福井での醤油業を創めた。
 翌年には、福井税務署より醤油製造、米麹の免許を受け、塩小売人の指定や、粕の肥料売買営業免許も認可された。
 友人の援助、本人の努力により急速に得意先も増え、次第に支店の福井が、金沢の店より業績を上まわるようになった。競争の激しい金沢より福井での発展を考え、両親と相談の結果、一家福井へ移り営業の1本化を計る。祖先の地を離れることは大変なことだったと思うが、福井へ永住することになった。(金沢市大野町に現在も土地は所有している)
 明治44年、次作は福井市春山上町坪田才助五女、ときと結婚する。一家あげての働きに、順風満帆の歩みを見る。大正5年には足羽郡木田村羽入の土地を買入れ工場地とした。(現工場地)
 次作は進歩的で、建物も3階に改築。製造工程を立体化した。福井で初の三輪車を買入れ、優秀な従業員は夜間中学へ通わせていた。大正12年には地下式鉄筋コンクリート諸味タンク9基を、県庁建設中の大林組に設計施行させ新築した。総工費4,150円。
 次作は4人の女子を儲けたが漸く5人目にして、昭和4年5月9日長男、喜正を出生する。一家あげての喜びも束の間同月21日ニ代目妻はつ死亡。涙の乾くまもなく、避暑のため一家三国に滞在中の同年8月5日夕方6時、次作が海岸にて脳溢血のため急死する。44才だった。

◆次作の妻ときの苦労
 思いがけぬ大黒柱を失い、舅、5人の子、使用人をかかえた妻ときの心中は如何ばかりであったか。しかし得意先に恵まれ、夫の残した設備の近代化のもと、舅の暖い助言と番頭、佐藤をはじめ従業員の協力により営業を維持することができた。昭和5年の工業調査によると、使用人男7女1名。醤油263石、味噌800貫、給料平均20円の記録あり。
 昭和6年ニ代目喜太郎、嫁、孫に見守れながら永眠した。
 幼い喜正が四代目を嗣ぐ。母ときは家業を守るため寝食を忘れて働き、子供に父なき負い目をさせじと4人の女子を女学校に進学させ、特に2人は女子歯科医専、実践女専と上京進学させる。娘が不幸にして夫に先立たれても自立できるように心を配り、医師や教師の職を身につけて嫁がせた。
 支那事変勃発により世情は急変した。使用人は出征、徴用とついに男手無くなり福井味噌工業株式会社設立に加入した。
 機械類もすべて新会社の設備に供出し、企業合同するとともに、やむなく製造を中止することになった。そして間もなく醤油、味噌が統制された。当時営業とは名ばかりで、配給日に1,113人の割当てを捌くのみだった。
 20年7月19日福井空襲。我が家は奇跡的にも住宅店舗は助かった。しかし100米も離れていない工場は全焼した。
 20年8月15日終戦。食糧事情は益々逼迫する。貴重品となった醤油、味噌を扱うおかげで、この苦難な時代も、我が家は衣食住の不自由のない生活を送ることができた。
 23年6月28日福井地震により、空襲で残った家屋も全壊した。しかし親戚知人、出入りの大工の好意により8月には住宅店舗を建てることができた。

◆製造再開
 四代目喜正は、生後3ヶ月目に父の急死にあうが、母の愛情により何不自由なく成長した。
 昭和25年3月。金沢大学工専工業化学科を、研究課題「アミノ酸醤油における高温分解と低温分解の差」の卒業実験を発表して卒業した。卒業と同時に代々世話になった金沢市由水醤油に住み込み実習する。この年、由水は、糖密醤油、星野式速醸の2つの特許をとり、その製法を由水工場にて深井冬史、星野両先生から直接指導を受ける幸運に恵まれた。僅か1年の短い期間であったが、醤油に対する密度の深い新旧の製法を得ることができた。
 25年7月統制も終り、自由競走時代となる。
 26年2月帰福。住宅裏の倉庫を工場に利用した。戦争のため一度退職した太田の復職もあり、長年の休業から製造販売ともに新しく出発することができた。
 32年、空襲で焼け、諸味タンクだけが雨ざらしのままになっていた工場地へ、木造2階建の工場を新築した。工費80万円要した。又、33年には、都市計画により店舗の方の道路拡張される。このため店舗住宅を増改築した。県よりの移転補償費42万円を含めて工費90万円かかった。
 35年、市内毛矢町永田歯料医の四女、寿々子と結婚。
 37年の植樹祭。43年福井国体と、天皇皇后両陛下が本県に行幸啓になる。御宿泊所芦原開花亭にて、醤油をお召し上りいただく光栄に浴した。保建所より工場の清掃、検便をはじめ、衛生上の指導を受け献上申し上げた。
 44年。食品を扱うに相応しい店と、住いの合理化をはかり、鉄筋コンクリート3階の住宅店舗を建設した。総工費700万円。
 45年。設備、公害、労働力等の将来を切実に感じ、構造改善事業による北陸醤油生揚協業組合の設立に加入した。
 50年。既得の米麹免許を生かすべく、協業のため遊んでいる麹室に、売り麹専用に奈良工式自動製麹機を設置した。
 喜弘、浩規、雄三と3人の男子出生する。
 あの戦争の苦難な時代も、無事乗り切ることができたのは、先祖代々の醤油業のおかげであった。店舗新装により、店頭による現金売り上げも増加してきた。これからは、四代にわたる醤油製造を基礎に、発酵食品にカを注ぎ、より一層努力を重ね、いつまでも祖先の事業を続けて行きたい。