マルナガしょうゆ
永森醤油醸造場
◆初代「円太郎」
 初代永山円太郎の生家は、足羽郡麻生津村上江尻で、農業を営む市太郎の長男として生まれた。小学校を卒業し、市内神宮通りの山治醤油店に奉公にでた。大正6年4月、市内立矢通りにて、ささやかな借家で、酒・醤油店を始めました。
 その日が、当家の創業第一歩でした。朝、まだ暗い内から、大八車に醤油の小樽を積んで、町や、田舎方面へ夜暗くなるまで、売り歩いたそうだ。
 その内、市内の一乗町の吉田家の長女「きく」と結婚した。その翌年長女が生まれ、大正9年11月3日に、長男清が生まれました。
 商売は次第に販路を広げ、その為店が狭くなったので、元八軒町通りに引越しました。その頃には、店員も3人入れて手広く商売するようになった。
 昭和の初年は商売も軌道にのり、曲りなりにも裕福な生活が出来るようになった。しかし、商売を余り手広くしたため、直接の原因は解からないが、清が小学校1年の時失敗して閉店しなければならなくなった。
 その後、江戸町で店を出したがこれも思わしくなく、日之出町にかわり中古桶を買い集めて、醸造業の形を整えて来ました。その頃は、まだ諸味を買ってその後の作業をするに過ぎませんでした。しかし、この時が当店としては醸造業を始めた第一歩であった。それだけに、円太郎には連日苦労がつづいた。
 漸く、長男清も当家の営業の助けが出来るようになった頃、戦雲がたれはじめた。

◆ニ代目「清」
 清も、21才で現役として昭和16年7月満州野戦航空に入隊した。間もなく大東亜戦争が始まり、昭和20年7月15日には我が家工場共にB29による福井大空襲によって、全財産を焼失してしまった。初代円太郎に再び襲った大きな波乱であった。何にもまして、物資不足に悩まされた。そして、急激なインフレに振りまわされた。
 しかし、急いで焼け跡にバラックを建てて、再び小売から始めた。終戦になり昭和23年11月30日清はシベリヤから復員して来た。今日では、当時の人は全部故人となり正確なことはつかめない。
 清は、昭和23年3月23日麻生津の内田家の次女千代子と結婚し、商売の方も軌道にのり、順調な日々を送ることが出来ると思った矢先、又もや昭和23年6月28日、福井地震で工場、住宅全部が破壊されまた第一歩からの出直しとなった。七転八起の思いで古材木をよせあつめ、バラック造りの住宅、店舗を造った。しかし、地震のため水道管が破裂し、水が出ないので井戸のある所まで連日水汲みにおわれ、醤油を作るに一生懸命働いた。又、電気も何ヶ月も来ず、工場では動力が使えず、すべて手仕事で生活も夜はローソクの生活だった。
 その後、次第に全市的に復興が進み、当店も現地に昭和24年春、工場を新築し25年には住宅兼店舗を新築致しました。この頃から諸味も増してきた。しかしその後も水害などで床上浸水するなど災害がつづき、苦労が絶えなかった。
 その頃より、営業の方はすべて清の時代となっていた。当時はまだ自転車で御用聞きに廻っていたが、それ成りに次第に商売として軌道にのってきた。
 昭和24年には長男が生まれ、28年には長女が生まれ、平穏無事な毎日でした。しかし、昭和29年10月3日、母きくが、昭和51年2月20日円太郎も他界した。
 昭和45年構造改善事業で北陸生揚協業工業組合に加入し、当工場では精製工程以後の作業ですませるようになった。その余分の設備で、米糀の加工にも力を入れてきた。
 現在では商売も順調よく、御得意様も増えて忙しくなり、自動車で販売に精を出している。
 長男も結婚し、孫も生まれて家庭円満な暮しをして居る。これもみな、醤油業を大切にして来たことが、今日の円満な家庭に結びつく事を思う時、先祖に探く感謝する気持ちで一杯だ。